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【ドイツ・フランス・イタリア三国 歴史街道の旅】シャルルマーニュ・カール大帝が駆け巡ったヨーロッパ

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

こんにちは。文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家の小園隆文です。


ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

今日は新シリーズ、【ドイツ・フランス・イタリア三国 歴史街道の旅】になります。


史上の国王・皇帝・文豪・商人・市井の人々…、様々な立場の人々が駆け巡ったヨーロッパの街や国を辿り、その歴史に親しむことを目的として書いていきます。


このブログを読み、または動画を観てもらうことで「ここに行ってみたい!」そんな街や国が見つかれば幸いです。


第一回目は、「ヨーロッパの父」と呼ばれるフランク王国の国王・西ローマ皇帝、シャルルマーニュ・カール大帝が歩んだ旅路を辿ってみます。


生地・エルスタル(ベルギー)


シャルルマーニュ・カール大帝は、現ベルギー東部のエルスタルという街に生まれた、とされます。生年は742年・747年・748年と諸説あります。エルスタルにも15歳ころまでいたとされています。


エルスタルは人口60万人ほどの街。雰囲気はどことなく、日本の地方の小さな街と似ています。中世には陶芸・鍛冶・時計などの職人の街、近代に入ると鉱山の街として栄えます。現在は航空・宇宙・軍事関連の企業が工場を設置しています。


近在のリエージュには、『カール大帝像』も建てられているので、そちらもご覧になってみては。


イタリア遠征・パヴィーア(イタリア)


771年にフランク王に即位したシャルルマーニュ・カール大帝は、773年にローマ教皇の要請を受けて北イタリアに遠征。ローマ教皇領を脅かすランゴバルド王国を倒し、首都パヴィーアを占領します。


パヴィーアはミラノの南30キロほどの位置にある、人口7万ほどの小さな街です。後の神聖ローマ帝国皇帝はイタリア大生も兼ねていましたが、イタリア王としての戴冠式はこのパヴィーアで行われました。


1361年に創立されたパヴィーア大学は、現在でも医学と科学で名門として知られています。1525年には皇帝カール五世とフランソワ一世による「パヴィーアの戦い」の戦場に。この戦いで負けたフランソワ一世は捕虜として、その後マドリードに移送されています。


ザクセン人・イスラム勢力・アヴァール人、相次ぐ戦いの日々


772年からは約30年に及ぶザクセン戦争を戦います。ザクセン人を王国に組み込み、キリスト教に改宗させていくためです。この時にエルベ川沿いまで進攻し、現マグデブルグに砦を築いています。現在もドイツの地名に多い、「○○ブルグ」の一つです。


ザクセン人との戦いの合間に、イベリア半島でイスラム勢力とも戦います。現スペイン北東部のサラゴサで勝利するも、その帰路のピレネー山脈でバスク人に襲撃され大敗。「ロンスヴォーの戦い」として知られるこの戦いは、『ローランの歌』という古典叙事詩にも収録されています。


サラゴサは元ローマ帝国の植民市です。最初はカエサラウグスタという名前で、イスラム統治時代にはサラクスタ、レコンキスタ(国土回復運動)が完結して以降、サラゴサと呼ばれるようになりました。マドリード・バルセロナ・トゥールーズ(仏)といった主要都市のほぼ中間、それぞれ各300キロ以内という位置にあり、交通の要衝として発展しました。7世紀にはサンタ・エングラシア寺院が大図書館も所有して文化も栄え、教会・聖堂も多数建立されます。


現在でも残るヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂、サルバドール・デ・サラゴサ大聖堂、そしてイスラム統治の名残を感じさせるアルファフェリア宮殿などが人気の観光名所にもなっています。


東方でのザクセン人との戦いに戻る途中には、現フランスのブルターニュ半島、フリースラント(現オランダ・ドイツにまたがる地方)も平定。ドナウ川上流ではバイエルン族と、バルカン半島のパンノニア平原では東方系アヴァール人と戦います。


こうしている間にフランク王国の領土は広大なものとなり、現代の地図に当てはめると東はクロアチア、西はスペイン、南はイタリア、北はデンマーク。ほぼ現在のEU(欧州連合)加盟国を網羅するまでになりました。EUが「シャルルマーニュ・カール大帝への復興運動」と呼ばれる一因もここにあります。そしてこの中に含まれていないイギリスが、一時は加盟したものの、結局は離脱してしまったのも、このシャルルマーニュ・カール大帝が歩んだ道程に含まれていないという、その根本的な潜在意識に根深い原因があるのでは?と個人的には感じております。


カロリング・ルネサンスの中心、アーヘン(ドイツ)


これらの功績が認められて西暦800年のクリスマス、ローマ教皇により西ローマ皇帝に戴冠されます。場所はもちろんローマ。


そして晩年は、現ドイツ西部のアーヘンに落ち着きます。ここで「カロリングルネサンス」と呼ばれる、古典文化復興運動にも一役買っています。戦いばかりしていた訳ではなく、シャルルマーニュ・カール大帝が「ヨーロッパの父」と称されるのは、この古典復興運動にも一因があります。当時の知識人たちをアーヘンに集め、ラテン文化の復興に努めさせました。


アーヘンはドイツ西部、ベルギーやオランダとの国境近くにある、人口25万人ほどの街です。命名の由来はラテン語の「aquae 水」。この街は有名な温泉地としても知られ、この後の色々な著名人が病気の治療や保養のためにアーヘンを訪れています。またドイツ王の戴冠式も度々行われたアーヘン大聖堂も有名です。


そしてシャルルマーニュ・カール大帝は814年、その生涯を閉じ、遺骸はそのアーヘン大聖堂に葬られました。


ここに書いた行程の途中でウィーン・ローマといった、誰もが知っている有名都市も訪れていますが、これらの都市はガイドブックがたくさん出ていますので、ここでは特にあまり触れられることのない小さな都市を中心に記述しました。


読んでみて、一度は訪れたい!という街が見つかりましたでしょうか?個人的にはやはり、アーヘンは一度訪れてみたいですね。そして温泉にも浸かってみたいものです。


このシリーズでは引き続き、ヨーロッパ史上の過去の先人たちが歩んだ足跡を辿り、歴史に親しむだけではなく、「行ってみたい!」と思わせるような街を紹介していきますので、次回を楽しみにお待ちください。


それでは良い旅を

【独】Gute Reise!

【仏】Bon voyage !

【伊】Buon viaggio!


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今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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ドイツ・フランス・イタリア三国史

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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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