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【ドイツ・フランス・イタリア三国史】兄弟・親類・庶子・盟友…。王位をめぐって複雑に入り乱れる人間模様

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

こんにちは。文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家の小園隆文です。


ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

今日は【ドイツ・フランス・イタリア三国史】シリーズになります。


過去のブログはこちらからお読みください。


870年メルセン条約により、フランク王国は東フランク王国・西フランク王国・イタリア王国に三分割され、後のドイツ・フランス・イタリアの大枠が出来上がりました。しかしまだ完全に現在のような国が出来上がった訳ではありません。まだまだ多くの紆余曲折が繰り返されます。


875年、イタリア国王ロドヴィーコ二世が跡継ぎを残さずに死去します。こういうところにも父ロターリオ一世の不徳の影響が残されているような…


これを受けてローマ教皇ヨハネス八世の承認の下、叔父に当たる西フランク王・シャルル二世禿頭王がイタリア王・西ローマ皇帝を兼ねることになります。これまで散々えこひいきされてきた禿頭王、こういうところでもキッチリと美味しい所を抑えます。


翌876年には、これまで禿頭王の盟友であった東フランク王・ルートヴィヒ二世ドイツ人王も死去します。この事態に禿頭王は「遂に私が王国を統一する時が来た!」とばかりに、東フランク王国に進撃を開始します。


しかしここでドイツ人王の息子たち三人が一致協力して、禿頭王を撃退。王国再統一の夢ならず、翌877年禿頭王も死去します。禿頭王、人生の最後で欲張り過ぎてしまいました。


さてこれで、東フランク王国はドイツ人王の三人の息子たちによる分割統治となります。長男カールマン二世がバイエルン王(876~880)、次男ルートヴィヒ三世がザクセン王(876~882)、三男カール三世がアレマニア王(876~887)です。カール三世の異名は「肥満王」です。大男ではあったようですが…(笑)


西フランク王国は禿頭王の息子のルイ二世(877~879)。その死後はその長男ルイ三世(879~882)と次男カルロマン二世(879~884)の共同統治となります。


禿頭王が兼任していたイタリア王は、バイエルン王カールマン二世が兼ねます(877~879)。イタリア語では「カルロマン二世」となります。


さてここから少し込み行ってきます。まずイタリア王のカルロマン二世にしてバイエルン王カールマン二世、病気のためイタリア王を弟のカール三世肥満王に譲りますが、880年に死去します。この結果、カール三世肥満王はイタリア王も兼任します(879~887)。その流れで西ローマ皇帝にも即位します(~887)。


882年には次兄のザクセン王ルートヴィヒ三世も跡継ぎを残せずに死去します。これによりカール三世肥満王がザクセン王にもなります。すでにカールマン二世の死によりバイエルン王にもなっていますから、ここにカール三世肥満王が東フランク王国を一手に統治することになりました。


そして残るは西フランク王国ですが、共同統治していた兄弟の兄ルイ三世が882年、弟カルロマン二世が884年に相次いで死去。死因は揃いも揃って狩猟中の事故というものです。遊びで気が抜けたのでしょうか。


二人には跡継ぎとなる男子がいなかったため、またもカール三世肥満王が西フランク王にも即位。これによってカール三世肥満王が相次ぐ身内の死によって、はからずも全フランク王国を再統一することになりました。


人間長生きすれば、いいことがあるもの。特に平均寿命が今よりはるかに短いこの時代では、王の仕事で最も大事な仕事の一つは「跡継ぎをきちんと残すこと、そして健康で少しでも長生きすること」です。


しかしながらカール三世肥満王は、ただ僥倖に恵まれただけの王でした。マジャール人の襲撃など王国内外の問題に上手く対処できず、次第に諸侯の支持を失います。これを見かねた甥のアルヌルフが肥満王に対して反乱を起こし、肥満王を見限っていた諸侯もこれを支持します。結局肥満王は887年、自ら国王を退位し、翌888年跡継ぎを残せずに死去。反乱を起こした甥のアルヌルフが東フランク王に即位(887~899)します。肥満王の兄カールマン二世の庶子、正妻ではない女性、平たく言ってしまうと愛人との間に生まれた子供です。とはいっても能力に出自は関係なく、東フランクではマジャール人、西フランクではノルマン人の撃退に功績を挙げ、896年には西ローマ皇帝にも即位します。


そのアルヌルフは東フランクのみならず、イタリアでも大暴れします。やはり肥満王の死去によってイタリア王に即位していたベレンガーリオ一世(888~924)とその対立王グイード(889~894)との対立による混乱を治めるべく、ローマ教皇が出してきた救援要請に応じてイタリア半島に勇躍と乗り込みます。そして対立する両者もろとも撃破し、896年にイタリア王にも即位します。


さてその頃、西フランク王国では「国王は以後選挙で選ぶ」ということになり、888年にロベール家のウードが王に即位します(~898)。ノルマン人撃退の功績が評価された、初のカロリング家以外の国王となります。しかし軍事と政治は勝手が違ったか、政治の場では思うようにならず、893年よりルイ二世の三男シャルル三世と共同統治となります。そして898年ウードが死去し、以後はシャルル三世の単独統治となります(~929)。


西暦900年前後の、かつてのフランク王国の状況はこのようになります。

東フランク王・イタリア王・西ローマ皇帝→アルヌルフ

西フランク王→シャルル三世


国王は「跡継ぎをきちんと残すこと、そして健康で少しでも長生きする」ことももちろん大事ですが、それだけではなく「王国を外敵から守る力」「家臣と民を束ねる力」がなければ務まらない、ということです。それでも能力があっても早死にしてしまう、それほどではなくても健康で長生きする。王政というのは国王個人の資質や運にものすごく左右されます。それだけ人間臭いドラマが繰り広げられて面白くもあるのですが…。


今回はここまで。続きは次回を楽しみにお待ちください。


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今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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