こんにちは。文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家の小園隆文です。
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今日は【ドイツ・フランス・イタリア三国史】シリーズになります。
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東フランク王国では、ハインリヒ一世がマジャール人撃退に成果を挙げています。今もドイツの地名に多い、「○○マルク(辺境領)」「○○ブルク(城砦)」などはこの頃に多く造られました。またハインリヒ一世は今後の王系継承について、「今後は単独相続としていく」ことを決めます。フランク民族の慣習である分割相続によって、王国が分裂・弱体化していくことを防ぐためです。
そのハインリヒ一世が死去すると(936年)、生前から指名を受けていた長男のオットーが、オットー一世(936~973)として即位します。オットー一世も引き続き、マジャール人との戦いを繰り広げながら、着実に王国の国力を向上させていきます。
その頃イタリア半島は、相も変わらず混乱。混乱していること自体が日常といえるのが、イタリア半島かもしれません。945年、ベレンガーリオ一世の孫であるベレンガーリオが亡命先のドイツより帰還を果たします。イヴレア辺境伯として、今のトリノ付近に所領を持ちながら、イタリア国王をもしのぐ実力を蓄え、ウーゴ(926~946)、その後を継いだロターリオ二世(946~950)の「最高顧問」として実権を奮います。
そしてロターリオ二世の死去(ベレンガーリオ伯による暗殺説あり)により、そのベレンガーリオがベレンガーリオ二世として即位(950~961)。祖父の無念を晴らすべく、イタリア国王に登り詰めました。
しかし人間にはタイプあります。国王として担がれる方がいい人、黒子として国王を脇から支える、または背後から操る方がいい人。いい悪いではなく、持って生まれた人間のタイプです。西フランク王国の大ユーグはそれを自分で分かっていたのか、実力はありながらも自らは国王位に就かず、王を脇から支える(後ろから操る)立場に徹しました。しかしベレンガーリオ二世はそれが分かっておらず、自分で国王として担がれる方に進んでしまいました。
国王となったベレンガーリオ二世は、自分の息子アダルベルトと亡きロターリオ二世の妃アデライードを無理やりに結婚させます。祖父ベレンガーリオ一世も諸侯からの人望がありませんでしたが、その孫ベレンガーリオ二世にもやはりというか、その人望のなさが引き継がれていました。このベレンガーリオ二世の強引なやり方に反発した当のアデライードはもちろん、イタリア諸侯そしてローマ教皇までもが共同して、ベレンガーリオ二世に反旗を翻す…。のですが、自分たちで一致団結して立ち向かうのではなく、東フランク王のオットー一世に救援を求めます。この後も半島が混乱した時に、外国の君主に助けを求める。しばしばイタリア半島の歴史でよく見られる現象です。
一方、これをイタリア進出のチャンスと見たオットー一世はすぐさま駆け付け、ベレンガーリオ二世親子をいとも簡単に撃退。強敵マジャール人との戦いに比べれば、朝飯前です。そしてパヴィアでイタリア王を名乗り、しかも自分が救出したアデライードと結婚まで果たします(独名アーデルハイト)。
オットー一世はマジャール人との戦いのため、一度ドイツに帰国します。するとそれを見計らったベレンガーリオ二世は再び我が物顔で振舞います。マジャール人との戦いを一段落させたオットー一世は再びイタリア半島に舞い戻り、ベレンガーリオ二世親子を返り討ちに。ベレンガーリオ二世の兵士たちが戦闘を拒否したこともあって、あっけなく片が付きました。どこまでも人望のないベレンガーリオ二世です。
ここまでの功績を見せつけられたら、もうこの人に王として即位してもらうしかなかったのでしょう。962年、教皇ヨハネス十二世はオットー一世を西ローマ皇帝として戴冠させます。そしてその抱き合わせのようにイタリア国王にも即位します。この後しばらくは、東フランク王(=ドイツ王)がイタリア王・西ローマ皇帝を兼ねる状態が続いていきます。また教科書では、このオットー一世の戴冠を「神聖ローマ帝国」の始まりとしています。しかしこの帝国名が使用されるようになるのは、オットー一世の戴冠から三、四百年後です。この当事者たちには「神聖ローマ帝国」というよりも、「フランク王国の復活」という感が強かったかもしれません。
オットー一世はマジャール人の撃退や、皇帝としてイタリアをも手中に入れた功績が評価されて、オットー大帝と呼ばれます。大帝と呼ばれる皇帝はこの後も二、三人出てきますが、その最初の皇帝です。
さて同じころの西フランク王国では、ロベール家の大ユーグが「最高実力者」として国王を操りながら、ラウール(923~936)、ルイ四世(936~954)、ロテール(954~986)、ルイ五世(986~987)と続いていきますが、最後のルイ五世が跡継ぎを残せずに死去したことで、こちらでもカロリング家の血筋が途絶えることになります。そして諸侯による選挙の結果、大ユーグの息子ユーグ・カペーが西フランク王に即位(987~996)。ここにカペー朝という新しい王朝が始まることになります。
西暦1000年を前にして、東フランク→ザクセン朝、西フランク→カペー朝、イタリア→ザクセン朝の王が横滑り式にイタリア王・西ローマ皇帝も兼ねる、という状況です。イタリアではまだまだですが、東フランクは「ドイツ」、西フランクは「フランス」に、各々だいぶそれっぽくなってきました。といってもまだまだ現代の国家にはほど遠いですが…。
今回はここまでとさせていただきます。
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