こんにちは。「日本人のための世界史作家」小園隆文です。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
連日熱戦が繰り広げられている、サッカーEURO2020もベスト8が出そろい、7月3日から準々決勝が行われます。今日は6月30日に行われた決勝トーナメント1回戦、イングランドVSドイツの試合に絡めて、両国関係の歴史の一端を。
ご存じのようにイングランド、というより混乱を避けるため「イギリス」としますが、イギリスには王室があり、その歴史は現存するヨーロッパの王室の中では最も古い歴史を誇ります。もっとも、日本の皇室の方がもっと長い歴史を誇りますが。
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その長い歴史の中で、度々転機を迎えてきたイギリス王室。その発端は1066年。現在はフランスのノルマンディー地方から、ノルマンディー公ギヨームという人が、血縁関係を元にイングランド王位を主張し、その争いに勝ってイングランド王ウィリアム一世として即位します。イギリス史ではこれを「ノルマン・コンクェスト(ノルマン人の侵略)」と呼んでいます。「フランスから来たのになぜノルマン人?」これは書き出すとまた長くなるので、ここでは割愛。ひとまずは「フランス人が乗り込んできてイングランド王に即位した」と捉えてください。そしてその後もイングランド王には、「英語を話せず、フランス語しか話せない」、つまりはフランス人の王が続きます。
次の転機は1603年、日本では徳川家康が江戸幕府を開いた年に、イングランドでは女王エリザベス一世が、生涯独身を貫いたため、跡取りを残さずに死去。そのため、血縁関係をたどって、隣国(この時はまだ別の国)のスコットランド王ジェームズ六世を呼び寄せ、イングランド王ジェームズ一世として即位します。この後、しばらくはスコットランド人の血筋の国王が続きます。
その次は1688年。その時のカトリックの国王ジェームズ二世には当初、跡取り息子がおらず、長女でオランダ総督ウィレム三世に嫁いでいた、プロテスタントのメアリーを即位させることを議会は望みます。ところが男子の跡継ぎに恵まれたジェームズ二世は、この子をカトリックの王として即位させることを主張。国王と議会、プロテスタントとカトリックという宗教争いの末に、議会側がメアリーとウィレム三世をイングランドに上陸させ、ジェームズ二世はフランスに亡命。こうして「名誉革命」と呼ばれる事実上の無血クーデタが成功し、メアリーはメアリー二世として、夫のウィレム三世は「ウィリアム三世」として夫婦で共同統治者として即位。ウィレム改めウィリアム三世は元はオランダ人。
そしてこのお二人は子供に恵まれず、王位継承はその妹アンが1702年に女王として即位しますが、こちらも子供に恵まれず、1714年に死去。この時、フランスに亡命したジェームズ二世の息子が王位継承を主張しますが、「カトリックの国王はダメ」という議会が、これまた複雑な血縁関係をたどって、現在のドイツ・ハノーバー公ゲオルク一世を呼び、ジョージ一世として即位させます。今度はドイツ人の国王が誕生して、ハノーバー朝が始まります。その後、19世紀の1837年にヴィクトリア女王が即位すると、女系となったため、サクス=コバーク=ゴータ朝という長い名称に。そして第一次世界大戦でイギリスとドイツが敵国になると、「王朝名が敵国の名前では好ましくない」との理由で、ウィンザー朝と改められ、現在に至っています。しかし、血筋そのものが途絶えた訳ではなく、現在のウィンザー朝の元々の始祖はドイツに。
と、このように現在のイギリス王室の起源はドイツに。でも、その前はもうフランスから、スコットランドから、オランダからとあちこちの血筋の人が国王に即位している。それがイギリス王室の歴史の一端です。結構、苦し紛れにどうにかこうにか、存続してきた。日本の皇室がこれを真似る必要はありませんが、イギリスという国のしぶとさを感じ取ることができる一事であります。繰り返しますが、日本の皇室がこれを真似る必要は一切ありません。
今日も最後まで、ブログを読んでいただき、ありがとうございました。
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