こんにちは。「日本人のための世界史作家」小園隆文です。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
引き続き、サッカーEURO2020の試合に絡めての記事を。いよいよ、大会も決勝トーナメントに入りまして、連日熱戦が繰り広げられています。今日は6月28日に行われた、イタリアVSオーストリアの試合から、両国関係の歴史を。
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イタリアが統一国家となったのは、意外に新しく1861年。日本の明治維新の七年まです。それまでは、おおよそ七つほどの地域に分かれており、そのうち北部から中部の大半は、当時のオーストリア帝国の支配下にありました。
オーストリアは今でこそ、スイスの隣の小さな共和国ですが、第一次世界大戦終結後の1919年までは、現在のオーストリアの他にイタリア、ハンガリー、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、スロヴェニア、クロアチアにまたがる広い領域を支配した大国でした。
そのイタリアは1850年代から、この地図の左端の青い国、現在のトリノを中心とするサルデーニャ王国というのが主導し、カヴールという名宰相が指導力を発揮して、オーストリアのライバル・フランスの協力も得ながらイタリア統一を推進。1861年に統一戦争に勝利して、イタリア統一を成し遂げます。しかしこの時には、ローマ・ヴェネツィアほか一部の地域を統合することは叶いませんでした。これは「未回収のイタリア」と呼ばれました。
その後の1866年、プロイセンとオーストリアが戦った普墺戦争にプロイセンに協力しヴェネツィアを。1870年、普仏戦争でローマを守備していたフランス軍が本国に帰った隙を突いてローマを占領・併合。
最終的に第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約と、その後のラパッロ条約により、南チロル地方やトリエステといった東部地域がイタリア領となり、ほぼ現在のイタリアの領土となりました。
しかしこの南チロル州は、そもそもはオーストリアにあるチロル州と同じだったため、ドイツ語を話す人が多くいたので、逆にオーストリアから「固有の領土を奪われた」と反感を買いました。現在でもドイツ語を話す人が多数を占めるこの南チロル州では、1946年にドイツ系住民に自治を認めることで一応問題は解決しました。
しかしこの地方のドイツ系の人たちは、サッカーでイタリアとオーストリア、またはドイツが対戦する時には、どちらを応援するか、とても心を悩ますそうです。
陸続きで、戦争の度に国境線が変更されてきたヨーロッパでは、このような問題が他にもあります。サッカーをきっかけに、少しでもヨーロッパ史の奥深いところを知る機会になれば幸いです。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございました。
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