こんにちは。「日本人のための世界史作家」小園隆文です。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
人間、周囲の方々との関りなくしては生きていけません。それは国家でも同じこと。自分のエゴばかり通していると、生活が成り立たなくなります。
今日はそんな事例を、ドイツを統一した鉄血宰相、オットー・フォン・ビスマルクの行動からお伝えします。
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1866年、当時は三十余りの諸邦に分裂していたドイツ統一の主導権を巡って、プロイセンとオーストリアの間に戦争が始まります。普墺戦争と呼ばれる戦争です。開戦当初から装備と、鉄道を利用した輸送力に勝るプロイセンが終始オーストリアを圧倒。別名、「七週間戦争」と呼ばれるほどの短期間で、プロイセンが勝利します。
ここでプロイセンの軍人たちは、勢いに乗って「このままオーストリアの首都ウィーンにまで乗り込め!」と主張します。軍人にとっては、戦争に勝って敵国の首都に凱旋行進するのは、この上ない名誉とされています。
しかし、ここでビスマルクが「待った!」をかけます。そんなことをしたらオーストリアのプライドを傷つけ、後々にまで禍根を残す。それよりもここは、オーストリアに寛大な態度を示して、この後に協力してもらうようにした方が、プロイセンの利益にもなる。ビスマルクは、「これが受け入れられなければ、私は首相を辞める」との気合で国王を説得し、ウィーンへの凱旋行進は無しに。戦後の講話交渉でも、賠償金を払わせるだけで、領土の割譲はほとんどなし(わずかに今のヴェネツィアをイタリアに割譲させただけ)という寛大な措置をすることで、オーストリアのプライドを保つ形で終わらせることに成功しました。
この時、ビスマルクは奥さんの手紙の中で、「我が国民は、何かあるとすぐに落ち込みやすく、同時に調子にも乗りやすい。そんな国民に私は、プロイセン(ドイツ)だけが単独でヨーロッパに存在しているのではなく、周囲には英仏露など大国もいて、彼らもまた我が国を警戒していることを教えるという、厄介な仕事があるんだ」と、こぼしています。
この一連のことこそ、ビスマルクがドイツのみならず、世界史上でも屈指の名宰相とされる所以です。
負けて傷ついた相手に対して、さらに傷口に塩を塗るようなことをしても、恨みを買うだけ。そこに何の得もありません。人間関係においても、反論できない相手を徹底的に言い負かして悦に入っている人、いませんか?その行動、ただ恨みを買っているだけかもしれませんよ。
そして「プロイセン(ドイツ)だけのヨーロッパではなく、ヨーロッパの中のプロイセン(ドイツ)」。ビスマルクにはヨーロッパの地図がしっかり頭に入っていて、周囲の大国と付き合っていかなければ、プロイセン(ドイツ)は単独で生きられない、ということが分かっていました。
このビスマルクを、後のヒトラーと同列視する見方もありますが、とんでもありません。ヒトラーはただドイツがヨーロッパと世界の上に君臨することしか頭にありませんでした。そしてビスマルクが決してやらなかった、東西の両隣の国を敵にして戦うということをしでかして、国を破滅させました。ヨーロッパのほぼ中央に位置するドイツにとって、東西の隣国を同時に敵に回すことは、愚の骨頂以外の何物でもありません。ビスマルクには見えていた周囲の国々(=人々)が、ヒトラーには見えていませんでした。この差はとてつもなく大きな違いを生みました。
私もついつい、自分のことだけに捉われてしまう時もあります。そんな自省の念も込めて、今日はこのビスマルクの事例をご紹介しました。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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