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自分の命と引き換えにこれを…!

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

こんにちは。「日本人ための世界史作家」小園隆文です。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。


皆さんは、「自分の命に代えてでも守りたい!」と言えるものがありますか?まあ、その時代と置かれている立場とかもありますから、一概に軽々しく言えることではありません。と言ってる私も、このように問われたらおそらく「命より大事なものはない」と答えると思います。


今日は、「自分の命に代えてでも、これを国のために活かしてほしい」と、国の将来のことを思って言った人のことを書きます。幕末から明治にかけて活躍した政治家、榎本武揚です。



榎本は天保七(1835)年、幕臣の子として江戸に生まれ、昌平坂学問所で学んだ後、蝦夷地の箱館や樺太に赴任。その後、長崎海軍伝習所で学んだ後、文久元(1861)年にオランダに留学。主に海軍に関連する砲術・航海術・国際法などを学びます。その他にもデンマークとフランスを見て回り、慶応三(1867)年に帰国。帰国後は、幕府がオランダで発注して、そのまま乗船して帰国してきた開陽丸の館長を命じられます。


しかし翌慶応四(1868)年、幕府と薩長軍の間に戊辰戦争が勃発。錦の御旗を捏造(?)した薩長軍が「官軍」となって戦いを有利に進め、江戸無血開城、さらに会津戦争など奥羽越列藩同盟相手に、さらに戦いは続きます。


その中、榎本は旧幕府艦を率いて脱走。箱館に根拠地を構えて、徹底抗戦の構えを見せます。しかし時代の趨勢も戦力も、圧倒的に新政府軍が有利。やがて旧幕府軍は追い詰められ、年末年始のドラマでもおなじみ、箱館の五稜郭に追い詰められます。新政府側は、無益な殺生を避けるために降伏を勧告しますが、旧幕府軍側は拒否。


しかしこの時、榎本はただ拒否するだけではなく、戦闘中も肌身離さず持ち歩いていた、『海律全書』という、オランダ留学時に購入してきた国際法の書物を、「戦火で失われないためにこれを持ち帰り、翻訳して世に出してほしい」と、新政府軍の使者に手渡します。これに新政府側は、「いずれ必ず翻訳する」という謝意と共に、酒と肴を送ったとか。


結局、旧幕府軍は敗れ、榎本は責任を取って切腹をしようとしますが、側近に止められ、新政府側に投降。厳罰を求める声もありましたが、榎本の徳と才を惜しんだ黒田清隆が助命名を主張し、明治五(1872)年に特赦により出獄、以後しばらく謹慎。謹慎が解けた後は、黒田の下で北海道の開拓使として任官。


その後の榎本は、明治八(1875)年、駐露特命全権公使としてロシア帝国と交渉し、「千島・樺太交換条約」を締結し、日本とロシアの国境を画定。この時にきちんと条約でも定められていますから、北方領土は日本の領土です。そして文部大臣や外務大臣などを歴任して明治新政府でも活躍し、明治四十一(1908)年に死去します。


榎本が箱館の五稜郭で、使者に手渡した一冊の国際法の書物。それは榎本が、これからの日本にとって国際法が大きな武器になることが分かっていたからこそ、でした。国際法は文明諸国のルールであり、それを守ることは文明諸国の証。実際にその後の明治新政府は、国際法を欧米諸国以上にしっかり守って、その姿勢が認められて日英同盟の締結もでき、日清・日露の戦役に勝ち、不平等条約を解消します。国際法の大事さを理解していた榎本は、幕末・維新期の日本の、最大の功労者の一人ともいえます。


そしてその榎本を助命して、明治国家のためにその力を尽くさせた黒田清隆も慧眼でした。もっともこの人、人を見る目はあったのですが、酒癖が悪くて、悪酔いして色々とやらかしてしまう、という欠点もあったのですが(笑)


今日のブログはここまでとさせていただきます。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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