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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ⑥「戦争屋」?のローマ教皇で、ますます混乱のイタリア戦争

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


前回のブログでは、新たにフランス王に即位したルイ十二世がミラノ公国を征服。さらにナポリ王国を巡ってスペイン王フェルナンド二世と激突、というところまでを書きました。


1503年4月28日、両軍はチェリニョーラの戦いで相まみえます。フランス王軍は32000の大軍を動員。対するスペイン王軍も本国から、かつてレコンキスタ(国土回復運動)で活躍した名将、ゴンサロ・デ・コルドバ将軍を呼び寄せて迎え撃ちます。


結果はスペイン王軍の圧勝。スペイン王軍が兵8000。フランス王軍の約四分の一でしたが、圧倒的な火縄銃や大砲などの火力で、大幅に劣勢な兵力差を埋め合わせました。さらに本国からの増援で15000まで増えたスペイン王軍は、追撃戦となるガリリャーノ川の戦いでも、フランス王軍を叩きのめします。そして戦後に結ばれたリヨン条約では、フェルナンド二世のナポリ王が決められます。これ以降、ナポリがフランス王の手元に入ることはありませんでした。


しかしフランスから見れば、遠い南の地にあるナポリは、領有したところで統治にかかる手間や、軍勢を送る際の困難さなどを考慮すると、むしろ獲得しなかった方がよかったかもしれません。前任のシャルル八世と違って、ルイ十二世個人にとってはナポリなど縁もゆかりもない土地ですから。それよりも大事なのは、フランスからほど近い北イタリア、特に獲得したばかりのミラノを中心としたロンバルディア地方です。

ルイ十二世はジェノヴァを直轄都市に組み込み、さらにミラノ周辺のロンバルディア地方の都市の征服を目論みますが、そうなると必然的に利害が衝突するのがヴェネツィア共和国です。


ヴェネツィア共和国は1453年のコンスタンティノープル陥落以降、オスマン帝国がアドリア海や地中海で勢力を伸ばしてきたことと、ポルトガルやスペインが「大航海時代」と後に呼ばれる、大西洋航路の発展やアフリカ喜望峰周りのインド行きルートを開拓したことで、地中海貿易での権益が減少し始めました。それを補うために、ラグーナ(潟)の上に人工的に造営したヴェネツィア本国のみならず、イタリア本土へ領地を獲得して、そこで工場建設などの産業基盤を築くことを目指して、着実に西進してテッラフェルマと呼ばれる本土の領土を増やしていきます。そしてヴェネツィアが西に進めば、やがてロンバルディア地方の中心都市ミラノとぶつかることになるのは、火を見るよりも明らかでした。


ヴェネツィア共和国が北イタリアで勢力を伸ばしていく情勢を、ローマ教皇は警戒していました。ここでローマ教皇の移り変わりを。ローマ教皇も人間ですから、その時期が来れば神の下に召して(=死去して)、その地位を担う人は代わっていきます。


シャルル八世のイタリア進攻時の教皇は、アレクサンデル六世でした。自身の息子チェーザレ・ボルジアを教皇軍総司令官に任命するなど、ネポティズム(親族重用)と批判されながらも権勢を誇りましたが、1503年にローマに流行った感染症にかかって、意外に呆気なく死去。そして一緒に罹患したチェーザレは、一命こそ取り止めるものの、父である教皇を亡くした後は明らかにその勢威が落ち、加えて自身も病み上がりということで判断力・行動力・戦闘力・洞察力、要は全てが著しく見る影もなく衰えてしまい、最後はスペインとなヴァーラ王国と戦闘で戦死。マキアヴェッリからは「イタリア統一の希望」のようにも見られましたし、実際それだけの能力はあったと思いますが、彼の人生はその時とその所に恵まれませんでした。人間はいくら才能があっても、その才能を生かせる時代と場所に恵まれなければ、やはり宝の持ち腐れになってしまう。人の世とは、やはりなかなかに複雑精緻なものです。


さてローマ教皇のことに話を戻すと、アレクサンデル六世死去の後は、ピウス三世が在位わずか26日で死去し、その後にユリウス二世(画像の人物が即位。この方、アレクサンデル六世のライバルで、アレクサンデル六世死後は弱り目に祟り目の息子のチェーザレを「悪いようにはしない」と言いくるめて、その軍事力を利用し、用済みなったらスペインへ追放処分。血も涙もない冷徹な処分を平気で行える、アレクサンデル六世とは違った意味で、「本当に神の代理人?」というよう面白いお方です。


北イタリアでヴェネツィア共和国とミラノ公国の緊張が高まってきた時、まさに教皇だったのはこのユリウス二世です。ユリウス二世に限らず、ローマ教皇は「イタリア半島には強力な統一国家を造らない」が絶対至上命題です。ローマ教皇領を脅かすような強力な統一国家はイタリア半島にはいらない、出来そうになれば外国の王の力を借りてでもその勢力を叩きのめす。それ故に、イタリアの国家統一は19世紀まで実現しませんでした。そしてユリウス二世は「戦争屋」という、ローマ教皇とは似ても似つかない異名を与えられる教皇です。この異名が何を意味するかは、言葉だけでお分かりでしょう。そんなユリウス二世が、北イタリアでのヴェネツィア共和国の勢力伸長を警戒しています。


この「戦争屋」教皇・ユリウス二世、ヴェネツィア共和国に対して、いかなる手段に出るのか…?


この続きは次回のブログで。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文



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​小園 隆文 こぞの たかふみ

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