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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史    ㊴遠く隔たっていても無関係ではいられなかった、日本と西欧

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

画像 1600年のヨーロッパ Wikipedia使用分より


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


家康はスペイン・ポルトガルの武力侵略などは、全く恐れていませんでした。まずもってこの時の日本は、戦国の世がまだ終わったばかり。つい何年か前までは日本各地で戦乱が絶え間なく繰り広げられ、そこで鍛え上げられた武士・浪人たちがゴロゴロしています。それに加えて日本の最大の輸出品は刀剣。つまりこの時の日本は、有数の軍事大国だったわけです。スペイン・ポルトガルがいくらヨーロッパでは大国といっても、大西洋・インド洋を越えて、大軍を日本にまで派遣してくるまでの国力はありません。仮にそれを試みて、万が一日本にたどり着いたとしても…。結果は、日本海海戦(1905年)のロシア・バルチック艦隊と同じ運命をたどったでしょう。もちろん、日本側も相当な損害を被ったでしょうが。


日本にやってきた宣教師たちも、「この国(日本)を武力で制圧することは難しい」と、何度も本国に報告しています。仮にそれをやったとしても、全くコストに見合わない事業になったことは間違いありません。例えに使って申し訳ないですが、先に植民地化した中南米の民族とはその文化・国力がまるで比較にならないほど高いことは、痛切に理解していました。だからこそ、交易とキリスト教の布教で入り込んでいこう、と。


家康の方も、キリスト教国を完全に日本から排除、などとは考えていませんでした。実際に布教活動を一切行わず、貿易と商売だけに徹してくるオランダ・イングランドといった、プロテスタントの国には、商館設置を認めています。カトリックのスペイン・ポルトガルも、不況に執着せずに、貿易と商売だけに徹してくれるなら、彼らに対して手荒なことをする必要はありません。しかしカトリックの布教活動は、止むどころか着実に信者を獲得しています。


家康は何を恐れたのか?それは文字通り、「カトリック=普遍」という言葉が表す通り、その布教が進めば進むほど、日本はローマ教皇の配下に組み込まれ、「神仏の国」という独自性を失う、ということへの危機感です。


日本は支那初の儒教はじめとした中国文化も、インド初の仏教にしても、使えるところだけをつまみ食いして受け入れてきました。儒教の古典は学問として学びはしても、(一部の例外を除いて)中国皇帝に冊封はしない。仏教は入ってきても、厳しい戒律をどんどんなくして事実上の骨抜きに。その時々の日本の為政者たちは、これら海外の先進文明を都合よく骨抜きにして、受け入れてきました。此度のキリスト教にしても、ひとまず商売に徹してくれるプロテスタントなら付き合いやすいが、ずっと先にローマ教皇という、将軍や天皇、果ては「日本そのもの」を普遍化されてしまいかねない、存在と組織があるのなら、これ以上付き合うのは考えもの。後の言葉で言うなら、「日本の国体が危うくなりかねない」。そんな危機感を家康は感じ取ったからこそ、カトリックに対して厳しく臨むようになったのでしょう。


日本で家康が禁教令を発布して、カトリックへの取り締まりを厳しくし始めた頃、ヨーロッパでは、宗教という信仰の世界と、現実政治の国益追及が複雑に絡み合って、ますます複雑な情勢が到来していました。スペインはオランダの反乱に手を焼いています。フランスはそのライバル・スペインを弱体化させるために、カトリックの国でありながらオランダの反乱を支持。その一方で国内のプロテスタントは弾圧。対岸のイングランドは、フランス国内の反乱を支持。その一方で同じプロテスタントのオランダとは、貿易の対抗関係にあって、こちらでは陰ながらスペインと協力関係。オーストリアのハプスブルク家は領内ボヘミアでのプロテスタントの興隆に弾圧で応え、その反乱はますます激化。ドイツ・神聖ローマ帝国内では、カトリックとプロテスタントが相変わらず対立。その帝国内のプロテスタントのことも、対ハプスブルクの利害一致でフランスは支持。


日本におけるスペイン・ポルトガルのカトリック勢と、オランダ・イングランドのプロテスタント勢の対立も、ヨーロッパでのこの対立構図がそのまま持ち込まれています。


日本国内だけではない、遠く離れたヨーロッパの国際情勢もが微妙に絡み合っている、日本でのカトリック対プロテスタント。そしてそこに大坂の豊臣方。


こんな複雑な背景を持ち、いよいよ家康の、その生涯最後の戦い、大坂の陣の火ぶたが切って落とされます。



今回はここまでで。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。



繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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