画像 平戸オランダ商館(復元) Wikipedia使用分より
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
日本で過ごすようになって、既に十年以上の月日が経過して、すっかり家康の家臣としての立ち居振舞いも板についてきたアダムズは、当然ながら同国人としてセーリス司令官以下、英商船団の応接を任されます。イングランド本国もまた、「日本にいる間はアダムズを頼るよう」、セーリスに言い含めます。
しかしこのアダムズとセーリス、どうもウマが合わなかったようです。セーリスはアダムズに対して、「日本人やオランダ人の方に親近感を抱いているのでは?」と疑念を抱いていましたし、アダムズの方はセーリスの傲慢な態度がどうにも受け容れられませんでした。「○○日に平戸に来てほしい」というセーリスの申し出に、アダムズはなぜか所要が入って遅れるなど、ウマが合わない同士だと、自然とこんなことが起きてしまうから不思議です。そしてこんな些細なことの積み重ねが、二人の相性をますます合わなくしていきます。こういうことは、日本人も英国人も関係ありません。
イングランドはオランダと同じく、平戸に商館設置を認められます(慶長十八、1613年)。セーリスはオランダ商館長ブローワーに、お互いの織物の販売価格協定を申し入れますが、ブローワーはその申し入れを却下。逆に手持ちの織物を大幅に値引きして売り出すなど、のっけからライバル意識をむき出しにして商戦を仕掛けてきます。同じプロテスタント同士とはいっても、ヨーロッパでは両国は既に商売敵の間柄。スペイン・ポルトガルのカトリック勢のように布教は一切やりませんから、その分だけ「商売では負けない」という熾烈な意識があります。日本でのこの熾烈な争いが、後の英蘭戦争にも影響してくるのですが、
そこは本編の扱う時代範囲を超えてしまうので、ここら辺にしておきます。
そのカトリック勢の布教ですが、前年(慶長十七、1612年)の禁教令にも関わらず、5020名、4500名と着実に進んでいます。この禁教令が幕府の天領だけに限られた、いわば「ざる法」でしたから、この結果もむべなるかな、という感です。
その折、九州は肥前国日野江藩主、有馬直純の所領で事件が起こります。直純の父は、先の岡本大八事件で死罪となった晴信。直純も本来なら改易を免れないところでしたが、幼少期に駿府城で家康の側近くに仕えた縁もあって、どうにか所領安堵を許されます。しかし条件として突きつけられたのが、「領内に一人たりともキリシタンを残さないこと」。
律儀な性格であった直純は、信仰か?それともお家の安堵か?と悩んだ末に、藩主としてお家の安堵を優先することに。自身もミゲルという洗礼名を持っていましたが、浄土宗に改宗。家臣や領民にも棄教を迫りますが、大半の者が猛反発。棄教を拒む家臣を追放するなどしますが、長崎奉行からは「お主がキリシタンゆえ、棄教が進まないのでは?」と、その姿勢を疑われる始末。大御所様(家康)にお伝えしないわけにはゆかぬ、と脅しもかけられます。
進退窮まった直純は、キリシタンの家臣八名を前に、「余に愛情があるなら、領内の平和のために、一時的な建て前だけでもいいから棄教を表明してくれ!」と涙ながらに懇願。このうち五名は藩主の涙に心打たれて棄教を表明しましたが、残りの三名は頑なに固辞。直純はやむなくこの三名を処刑とすることに。
慶長十八(1613)年十月七日、三人の処刑の当日。刑場には二万もの群衆が集まりました。その大半は藩内のキリシタン。彼らは棄教せずに殉難の道を選んだ三人を祝福し、彼らが身に着けている聖遺物を獲得するために集まったのでした。それによってこの処刑をキリシタンにとっての祝祭と化すために。
刑執行の直前、彼らは三人の下に群がり、鋏や小刀で衣服などを切り取ります。そして火が放たれ、火刑執行。三人が縛られていた柱が倒れ、その死体が燃え続けていても、キリシタンたちは、火傷することもおそれず、死体に近づいて火をもみ消し、三人の聖遺物を確保し、持ち帰ります。三人の死体は長崎の教会に安置されて、司教から祝福を受けました。直純の涙ながらの説得で、一時は棄教を表明した五名も、この姿に感銘を受けて再度の告解でキリシタン信仰に戻りました。直純はこれらの一連の出来事で疲れ果て、幕府に転封を願い出ます。翌慶長十九年、日向延岡藩に移りました。
この有馬領の殉難の模様は、家康に事細かに報告され、キリシタンたちが自分も焼死するかもしれないことを恐れもせずに、聖遺物の獲得に執念を燃やした光景は、家康を戦慄させるに十分でした。慶長十九(1614)年、家康は禁教令の対象を日本全国に拡大。同時に宣教師の国外追放も命じました。
家康の反キリシタン政策は厳しさを増してきました。そしてキリシタン以上に家康が警戒する大坂城のあの一族ともついに…。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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