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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ⑱せっかく持って生まれた才能も、その後の環境次第で…

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

「政治においては奔放な即興よりも、理性と忍耐が勝る」

(作家シュテファン・ツヴァイクの、エリザベスをメアリ・ステュアートを対比した言葉)


画像 (左)イングランド女王エリザベス一世

   (右)スコットランド女王メアリ・ステュアート(メアリ一世)


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


時は1568年。日本の年号では永禄十一年。本編大河ドラマの主人公・徳川家康は数えで二十七歳。この二年前、永禄九年(1566)、朝廷より従五位下三河守に叙任され、姓も徳川氏に改めています。


ヨーロッパではこの1568年、前回お伝えしたように、スペインに対するオランダ独立戦争が始まっています。そしてこの同じ年に、地味ですが後々大きな意味を持ってくる出来事が起こっています。


場所はイングランド。この年(1568年)の5月、ある女性君主(正確には前・女王)がイングランドに亡命してきます。その君主とは、前スコットランド女王メアリ一世。という正式な国王号よりも、メアリ・ステュアートの名の方が知られている方です。


このメアリ・ステュアート、フランス王フランソワ二世妃としてフランス王妃になりましたが、王の死去後に王母カトリーヌ・ド・メディシスにより、体よくフランスを追い出されてスコットランドに帰国したまではお伝えしました。その後にこの女王を待っていたのは、「これでもか!」と言わんばかりの激動の人生でした。ここでメアリ・ステュアートのここまでの生涯を振り返っておきます。


1542年12月8日に、スコットランド王ジェームズ五世の長女として生まれます。しかしその6日後の12月14日、父ジェームズ五世が戦死。長兄・次兄が既に死去していたため、メアリが何と生後6日で王位を継承することになります。その後、イングランド王ヘンリ八世の要求により、王太子エドワード(後のエドワード六世)と婚約させられます。がしかし1547年、イングランド・スコットランド間に戦争。翌1548年、母メアリは娘の女王メアリ一世をフランス王アンリ二世の下に逃れさせ、以後メアリ・ステュアートはフランス宮廷で少女時代を送ります。母はメアリですが、フランスの貴族から嫁いできて、フランス名はマリー・ド・ギーズ。この縁で、メアリ・ステュアートはフランスに向かうこととなりました。


その後のフランス時代は既に述べたので、ここでは割愛。1561年8月、スコットランドに帰国。当時のスコットランドは、宗教改革の影響を受けてプロテスタントが多数に。一方、メアリ・ステュアートはカトリック。カトリックの女王の帰国に、国内の貴族は複雑な反応を示しますが、「宗教には寛容に臨む」と宣言。ここまではよかった。


独身で帰国し、しかもプロテスタントの貴族たちから、「女王の信仰は歓迎しないが、女王は歓迎」と言われるほどの美貌であったメアリ・ステュアート。当然ながらヨーロッパの各国から放っておかれるはずもなく、縁談話がひっきりなしに舞い込みます。その中でも、メアリ・ステュアートが一番乗り気だったとされるのが、先週のブログでもご紹介したスペイン王太子ドン・カルロス。王太子よりもその後ろにいる父、スペイン王フェリペ二世の庇護を得ることを目的としていました。しかしこの話は王太子本人の諸事情、さらにフランス摂政、かつての姑カトリーヌ・ド・メディシスやイングランド女王エリザベス一世からも反対があって立ち消えに。やがてメアリ・ステュアートは、1565年に出会ったステュアート家傍流の従弟に当たるダーンリー卿ヘンリに入れ込むことに。面食いの女王にとっては好みのイケメンであったことに加えて、信仰も同じカトリック。申し分ない相手でした。


しかしこの話にまたも、イングランド女王エリザベス一世が猛反対。エリザベス一世がなぜこれほどまでに、隣国の女王の結婚話に首を突っ込んでくるのか?女同士の恋のさや当て?いえいえ、そんな低い次元の話ではありません。根はもっと深刻。二人の血筋の問題です。


エリザベス一世の両親は亡き王ヘンリ八世とアン・ブーリン。アン・ブーリンはエリザベスを生んだ後、「不義密通があった」とされて処刑。エリザベスは王位継承権こそ復活して王位に就いたものの、その扱いは庶子。下世話に言えば「王と愛人との間の子」という扱いです。これはエリザベス一世にとっては、密かなコンプレックスです。できることなら忘れていてほしい、触れてほしくない…。


対してメアリ・ステュアートは父はスコットランド王ジェームズ五世。その父方の母マーガレットは亡き英王ヘンリ八世の姉。ということはその父は亡き英王ヘンリ七世。つまりメアリ・ステュアートは血筋としては、ヘンリ七世のひ孫。しかも現イングランド王朝のテューダー朝の創始者に連なる尊き血筋。加えてエリザベス一世との関係で見れば義理の姉(年齢はエリザベスが9歳年上ですが…)。


これが何を意味するか?見る人が見れば「エリザベスよりもメアリ・ステュアートの方がふさわしいのでは?」という話がぶり返されない、ということです。これに加えて結婚相手として浮上してきたダーンリー卿ヘンリもまた、母マーガレットの母つまりは祖母が、メアリ・ステュアートの母方の祖母と同じマーガレット。つまりはこちらもまた、亡き英王ヘンリ七世のひ孫。こんな二人が結婚されたら、ますます「どちらがイングランド王にふさわしいのか?」という話になりかねない。自分の血筋に密かなコンプレックスを感じているエリザベス一世は、それを一番恐れていました。


エリザベス一世はヘンリの母をロンドン塔に幽閉するなどの圧力をかけましたが、結局二人は1565年7月29日に結婚。翌66年6月には男子ジェームズが誕生します。これだけ見れば順風満帆に見えるメアリ・ステュアートとダーンリー卿ヘンリの結婚ですが、実は全くそうではありませんでした。メアリの目に余るヘンリに対する身びいき、特に王族にしか認められない爵位を与えるなどの公私混同に、国内の貴族が猛反発。しかもこのヘンリが甘やかされて育った典型的な貴族のおぼっちゃまで、能力から性格から何から何までどうしようもない「ダメ男」だったため、メアリ・ステュアートもやがて幻滅。一説には、エリザベス一世とその寵臣ウィリアム・セシルは、「このダメ男ならメアリ・ステュアートの足手まといになる」ことを見越して、途中から作戦変更して結婚を認めたとも。


そんなダメ男のヘンリに代わって、メアリ・ステュアートが寵愛するようになったのが、秘書のリッチオ。イタリア・ピエモンテ出身の音楽家でもあり、イタリア人らしい「女性へのきめ細かな気配り」で、女王の心をつかみます。しかし1566年3月、宮殿で女王とリッチオが食事をしているところに、数人の貴族が乱入。そして女王の目の前で、リッチオを惨殺。あまりのショックに、メアリ・ステュアートは危うく流産しかけました。主謀者は夫ダーンリー卿。すでに夫婦関係は冷え込んでいましたが、この件でもう修復不可能な状態に。この後生まれてきたジェームズも、「リッチオとの間の子では?」という疑惑が後々まで取りざたされました。


そうこうしているうちに、メアリ・ステュアートは国内貴族のボスウェル伯と良い仲に。夫ヘンリとは一時和解はしてもまた揉めるなど、ずぶずぶな関係が続いていましたが、1567年2月10日、夫ヘンリは側近とくつろいでいた館が爆破されて死亡。直後にボスウェル伯が女王に結婚を申し込み、「さすがにこのタイミングでは…?」としり込みしている女王をダンバー城に連行して、5月に強引に結婚。そのため、「ダーンリー卿はボスウェル伯が暗殺」説が有力ですが、真相は闇の中。しかしこんな結婚の仕方では、当然ながら誰からも祝福されず、それどころか「女王も夫の暗殺に加担した」とまで疑われる始末です。


そしてボスウェル伯に反感を持つ貴族たちが決起。1567年6月15日、女王とボスウェル伯の軍はエディンバラ近郊の戦いで敗れ、投降。二人はそこで別れさせられ、ボスウェル伯は一時ダンバー城に。その地で軍を組織して抵抗を試みるも、再び敗れて逃亡。やがてはノルウェー、そしてデンマークにまで逃亡して、そこで捕まりコペンハーゲンの監獄に投獄。そのまま1578年に獄死します。


一方、7月24日に廃位されて「前女王」となったメアリ・ステュアートは、ロッホ・リーヴン城に監禁されますが、一部の熱烈な支持者の強力で脱走に成功。軍勢を集めて抵抗を試みますが、イングランドに亡命していたマリ伯の軍に敗れます。そして放浪に放浪を重ねて、義姉妹になるエリザベス一世の庇護を求めてイングランドに亡命してきます(1568年)。


エリザベス一世としては、その本音は「厄介な女が舞い込んできた…」というところでしょう。下手に追い返せばスペインやローマ教皇などから反発を食らうこと必至。かといって国内に置いておけば、先述した「メアリの方が正統では?」という話が蒸し返されかねない。スコットランド女王でいてくれる分には何ということもなかったのですが、よりにもよってイングランドに逃げ込んできたために、とんだ厄介を抱える羽目となりました。しかしそんな本音はおくびにも出さず、かといって特別丁重に扱うわけでもなく、国内の城を転々とさせて「事実上の幽閉」状態にしておきます。


ここまで見てきたように、このメアリ・ステュアートの人生、絵に描いたような波乱万丈です。特に結婚する男を見る目のないこと。最初のフランソワ二世は仕方ないにしても、二度目のダーンリー卿はその顔と血筋に目が眩んで、三度目のボスウェル伯に至っては、半ば以上相手に利用されるようにしての結婚。夫の爆殺事件後のボスウェル伯の強引な求婚を、威厳をもって断っていれば、まだ女王としてやり直すチャンスもあったんでしょうが…。


メアリ・ステュアート、持って生まれた能力は、ひょっとしたらエリザベス一世よりも上だったかもしれません。しかし哀しいかな、その溢れる才能を使いこなす術を知らなかったし、それを引き出してくれるパートナーや側近もいなかった。ただ持って生まれた才能だけを頼りに、奔放に感情の赴くままに漂った。そんな一生です。それに対してエリザベス一世は、自分の感情を制御する術をきちんと心得ていた。ここが生後六日で女王となって、わがまま放題に育ってきた人と、一時は日陰の身となり、義姉(メアリ一世)のパワハラに耐えながら自己研鑽に努めてきた人との違いでした。冒頭のツヴァイクの言葉は、そんな同時代を生きた二人のライバルの生き様を的確に表現しています。


こうしてメアリ・ステュアートはこの後、19年にわたってイングランド内の城を転々とさせられながらの幽閉生活を送ることになります。そんなメアリ、大人しくしておけばいいものを、周囲に煽られて余計なことに手を出し、自らの身をますます危険に晒していくことになります。



今回はここまでで。



今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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コメント


​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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