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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ㉕エリザベスを征伐せよ!ついに無敵艦隊が出撃!

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

私は貴方たちの中にやって来たのです。遊びでも気晴らしでもなく、戦いの熱気の真っ只中に、貴方たちの中で生きそして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王国、我が民、我が名誉そして我が血のために

エリザベス一世 ティルベリーでの兵を鼓舞する演説の一部


画像 左・スペイン王フェリペ二世 右・イングランド女王エリザベス一世


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


スコットランド女王、メアリ・ステュアートは19年にわたる亡命生活の末、エリザベス一世暗殺計画への関与が疑われて、処刑されました(1587年)ののるる。


エリザベス一世は自分が署名したにもかかわらず、実際に刑が執行されると激怒し、執行責任者の国務大臣をロンドン塔送りにします。ロンドン塔はテムズ川沿いにある中世の城砦で、武器庫や天文台、造幣所など多目的に使用され、14世紀頃からは政治犯や死刑囚の習慣所にも使用されました。エリザベス一世自身もかつて、義姉のメアリ一世時代に収監されていたこともある、苦い思い出のある場所です。そんな因縁といわく付きの場所ではありますが、現在ではユネスコの世界遺産にも登録されています(1988年)。


「自分は本当はメアリ・ステュアートを処刑したくなかった。義妹にも当たるメアリの死を、自分は嘆き悲しんでいる…」ということを知らしめるための演技でもあったのでしょう。刑を執行した側近たちを罵倒し処罰したエリザベス一世ですが、そんな女王をヨーロッパ各国は非難します。もちろんローマ教皇も。ですが本気でメアリ・ステュアートの敵討ちのためにイングランド進攻を唱える国は、ほとんどありません。もはやメアリ・ステュアートは、ヨーロッパの国際政界においては過去の人物でした。


しかしここに一国だけ、イングランド進攻を目論む国がありました。こともあろうに、それが何とこの時の覇権国・スペインです。


イングランドの私掠船が各地で暴れまわり、スペインの貿易船に甚大な被害を与えていること、そしてそれをエリザベス一世が黙認していることは、もはや公然の秘密でした。メアリ・ステュアート処刑と同じ1587年、今やイングランド国家後任の海賊船長でもあるフランシス・ドレイク率いる私掠船団が、スペイン南西部にある、ジブラルタル海峡に近いカディスを襲撃して、スペイン艦隊に壊滅的な被害を与えていました。このスペイン艦隊は、「イングランド経営計画」、つまりはイングランドの襲撃と占領を企図していたと言われますから、エリザベス一世からすれば「やられる前にやれ!」ということです。このカディス襲撃事件、別名「スペイン王の髭焦がし」とも呼ばれています。


一方、その髭を焦がされたフェリペ二世の方は、度重なるフランシス・ドレイクの私掠船による襲撃に腹を据えかねていました。これまでは大西洋上などの本土から離れた場所でしたが、今回はスペイン本土のカディス。そこを襲撃された以上、このまま黙っていたのではスペイン王として、面子が立ちません。そしてメアリ・ステュアート処刑が加わり、フェリペ二世には自国の襲撃への報復以外に、カトリックの盟主としての大義名分も加わります。


敬虔なるカトリックにして、スコットランドの前女王メアリを無慈悲に処刑した、異端エリザベスを征伐する


加えてメアリ・ステュアートは死に際して、自身のイングランド王位継承権を、フェリペ二世に委ねることを表明していました。ローマ教皇シクストゥス五世も、フェリペ二世が選ぶ者をイングランド王位に就けること、イングランド征伐に当たって「十字軍税」を徴収することを認めるなどして、スペインのイングランド進攻を支持します。もはやイングランドとエリザベス一世は、かつてのイスラム教徒同様の異教徒、異端扱いです。こうして外堀を固めたフェリペ二世は、遂に対イングランド開戦を決意します。


当初は1588年1月に艦隊を出航させる予定でしたが、フェリペ二世が病気となったため、5月に延期されます。1588年5月9日、メディナ・シドニア公を総指揮官とする、総勢130隻のスペイン艦隊がリスボン港を出港します。1580年からポルトガルは同君連合として、スペインに事実上併合されています。この艦隊がスペイン領ネーデルラントで55000の兵を収容して、イングランドに攻め込む。これがスペインの作戦です。


一方イングランドには、スペインに対する独立戦争を戦っている北部ネーデルラントが味方します。現代のオランダです。迎え撃つ艦隊は総勢160隻と、艦船の数で優勢ですが、火砲ではスペインが優勢です。


7月31日、プリマス沖で遭遇した両軍は、前哨戦ともいうべき砲撃戦を繰り広げます。これは双方、「お手並み拝見」ぐらいの海戦で、大きな戦果はありません。


8月2日、ポートランド沖で前哨戦の第二弾。イングランド艦隊はスペイン艦隊のガレー船に大打撃を与えることに成功しますが、それでもまだ決定だとはならず。


8月5日、ワイト島沖でいよいよ本格的な会戦。イングランドは機動力で勝る艦船の特性を生かして、全体を四つに分けて総攻撃。イングランド艦船の速い足に、スペインの砲撃はなかなか敵に届かず。戦いはイングランドが優勢でしたが、それでもまだ決定打を与えるには至らず、スペイン艦隊はネーデルラント総督パルマ公の大軍が待つカレーへと向かいます。


ここで最強のスペイン軍5万が収容され、ブリテン島へと向かわれたら、小国イングランドなどはひとたまりもありません。もしこの時にスペイン軍がイングランド上陸を果たしたら、一気にロンドンまで攻め上がってエリザベス一世は十中八九、斬首。フェリペ二世の息のかかった人物がイングランド王となって、再びカトリック国に。その勢いをもってフランスも事実上のフェリペ二世の手先、ギーズ公アンリがフランス王となって…。文字通りのスペイン覇権が西欧に確立されて、そうなったら今私たちが目にするヨーロッパ地図とは全くちがったものになっていたかもしれませんが…。事実は、この通りには進みませんでした。


よく知られる「スペイン無敵艦隊」の「無敵艦隊 Armada Invencible」とは、はるか後年のスペイン海軍大佐が自身の論文で使用したものが広まったもの(1884年)で、当時のスペインではこの艦隊のことを「最高の祝福を受けた艦隊」「至福の艦隊」と呼んでいました。1884年のスペインといえば、もはやヨーロッパでは二流国扱いされ、栄光ははるか昔のこととなっていましたから、この大佐もそんな郷愁の思いで「Armada Invencible」と表現したのでしょうか。


本編・大河ドラマの主人公・徳川家康はこの時(1588年)、四十六歳。秀吉の天下が着々と固まっていく中で、左近衛大将に任ぜられ、小田原の北条氏政・氏直父子に秀吉への恭順を促すなどしています。



今回はここまでで。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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