「皆でよきフランス人たらんと努力すべき」
(フランス国王アンリ四世 ナントの勅令発布に際して)
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
アンリ四世になおも抵抗を続ける旧教同盟。それを背後から支援するスペインのフェリペ 二世。その背後の黒幕に対して、意を決して宣戦布告したアンリ四世。
自己破産の常習者・フェリペ二世ではありますが、それでもスペインは当代随一の峡谷であることに変わりはありません。しかもスペイン本国のみではなく、スペイン領ネーデルラント(大よそ現ベルギー)、さらにはブルゴーニュ、フランシュ・コンテという東部国境もからも、相手は攻めてきます。
戦況は一進一退。東部のブルゴーニュでフランスが勝てば、北のネーデルラント方面ではスペインが優勢。アンリ四世は戦争と同時に、国内諸侯の切り崩しも同時進行。新しい官職に就けることや、金銭に婚姻、あらゆる手を尽くします。中世から近代にかけてのフランスには、「官職売買」という慣行がありました。フランス王家はほとんどの時期を戦争に明け暮れ、その結果、財政窮乏が常態化しています。その金策の一環として、王室が官職を乱発してそれを貴族や富裕な市民層に売って、それを王室財政の足しにするものです。新たに官職に就いた貴族や富裕層は、その地位を世襲して私物化したり、または自分たちの財政が苦しくなると、勝手にそれを転売して換金したりしました。官職のモラルも何もあったものではありません。現代でもフランスは高度に中央集権化が進んだ官僚国家でありますが、その一端は中世以来のこの「官職売買」にあります。
さてスペインとの厳しい戦いを続けながらも、着実に各地の領主を帰順させ続けるアンリ四世。1598年4月にブルターニュ地方の都市ナントに入城した時には、ほぼ現在のフランス領の全てを、国王の下に置くことに成功します。ほんの五年前までは、あれだけ国王の手を焼かせてきた領主たちも今や借りてきた猫、とまでは言いませんが、時勢の流れを感じ取って、アンリ四世を国王として認めます。それだけアンリ四世が決死の覚悟で行った「とんぼ返り」、カトリックへの改宗の持つ効果と意味が大きかった、と言えるでしょう。
そして1598年4月13日、アンリ四世は史上に名高い『ナントの勅令』を発布します。この勅令でユグノーには、限定的ではありますが信仰・礼拝・公職就任の自由が認められ、また安全が保証される都市も決められます。「安全が保証される都市でのみ」という条件付きではありますが、ユグノーにもカトリックと同じ自由が認められたことは、ここまでのフランスの、そしてヨーロッパの歴史を見れば画期的な内容であることは間違いありません。ここまで来るのに、実に多くの血が流されました。カトリック側にはなお難色を示す者もいましたが、それを諭したのが冒頭のアンリ四世の言葉です。まさしく「フランスは一つである」と。
続いてスペインのフェリペ二世とヴェルヴァン条約の締結(1598年5月2日)。これによってスペインとの戦争も終結。フェリペ二世も内乱がひと段落して、一つにまとまったフランスが強敵であることは分かっています。そもそも、フランスはヨーロッパ有数の大国です。スペイン領ネーデルラントに近い、北東部の都市カンブレーのみ領有することで手を打ちます。
こうして内のナントの勅令、外のヴェルヴァン条約によって、1562年以来約40年にわたって続いたユグノー戦争は、やっとのことで終わりを告げました。この間にフランスはヴァロワ朝が終焉して、新たにブルボン王朝が始まり、シャルル九世・アンリ三世、そしてアンリ四世と、三人の王が交代しました。しかしスペインではフェリペ二世が、イングランドではエリザベス一世が、この間も王として君臨し続けていました。この二人がどれだけ長いこと国王として居続けたのかということですが、そんな彼らにも最期の時は確実に忍び寄っています。
フランスとヴェルヴァン条約を締結して約四か月後の1598年9月13日、スペイン国王フェリペ二世が死去します。72歳ですから、この当時にあっては長生きした方です。父カルロス一世からスペイン本国とイタリア、そして中南米の広大な領土を引き継いだ王は、その生涯の大半をマドリードのエスコリアル宮に引きこもって、その一室から広大な所領を統治し続けました。その姿は「書類王」と言われるほどで、政務に励んだことは間違いありませんが、一方で新大陸の富がスペイン本国を潤すことはほとんどなく、相次いだ戦争で危殆に瀕した財政により、計四度の破産宣告。「日の沈まない帝国」と呼ばれたスペインの最盛期に君臨したフェリペ二世ですが、その死の時には既に帝国の日は沈みかけていました。
さて同時期の戦国日本。太閤・豊臣秀吉が死去し、残されたのは幼い秀頼と淀君。五大老の筆頭として秀頼の補佐を、亡き秀吉から懇願された家康。ですが時勢は…?
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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