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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史    ㉝カトリックとプロテスタント、その対立は日本にも…

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

画像 「皇帝(大御所徳川家康)の前のウィリアム・アダムズ」

(Wikipedia使用分より借用)


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


慶長五(1600年)、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、三年後の慶長八(1603年)征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。同時期のヨーロッパ主要大国の君主は、


スペイン→フェリペ三世

フランス→アンリ四世

イングランド→ジェームズ一世

神聖ローマ皇帝→ルドルフ二世

オスマン・トルコ帝国→メフメト三世~アフメト一世

ローマ教皇→クレメン八世


といった面々です。家康とこれらの面々の間に、直接の面識も交流もありません。しかしヨーロッパの勢力は、着実に日本とその周辺に進出してきています。その筆頭はスペインで、すでにフィリピンを自国領とし、マニラを貿易拠点としています。そもそも「フィリピン」という名前からして、「フェリペ王の島」という意味です。ここでいうフェリペ王とは、先代のフェリペ二世のことですが。


ここから日本とかかわりが出てくるヨーロッパ諸国。その先陣を切っているのは、スペインとポルトガルのカトリック国。南蛮貿易を通して鉄砲・火薬・毛織物・香辛料などが輸入され、逆に日本からは銀や刀剣等が輸出されます。


それに続いてフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスといったイエズス会の宣教師たちが到来し、カトリックの布教活動を行います。この布教活動によって、特に九州でカトリック信者が増え、黒田長政・小西行長・高山右近といった大名もカトリックに改宗し、キリシタン大名と呼ばれるようになります。


一方、プロテスタント勢力が日本と関わるようになったのが、既述したオランダ船・リーフデ号の漂着から。その乗組員の中にいたイングランド人のウィリアム・アダムズを気に入った家康は、帰国を希望するアダムズに米や俸給を与えて慰留し、やがて自身の外交顧問として重用するようになります。


1564年、かの文豪シェークスピアと同じ年に生まれたアダムズは、12歳で船大工の棟梁に弟子入りし、そこで造船術と航海術を学びます。1588年に奉公の年限を終えたアダムズは海軍に入り、フランシス・ドレイク配下の貨物船船長として、あのイングランドの命運がかかったアルマダ海戦も経験。その後結婚して二人の子供を授かるも、除隊後は航海士として各地を廻る日々。そんなある時に、「極東を目指すオランダ船が、ベテランの航海士を探している」との情報を入手してロッテルダムへ。そしてリーフデ号の航海士として極東を目指す航海に参加することになりました。


そんな紆余曲折を経て、徳川家康と知り合うことになったウィリアム・アダムズ。海軍軍人・航海士としての経歴から、当然行く先々の情報にも精通していたことでしょう。単なる造船技術や貿易のことだけではなく、アダムズの故国イングランドのこと、ヨーロッパの国際政治情勢、カトリックとプロテスタント諸派との深刻な対立、その宗教が故で戦乱の巷と化していることも。こうしたプロテスタント側のイングランド人であるアダムズから聞く情報というのは、イエズス会士らカトリック側から聞く情報とは、また違った視点と価値があったはずです。


その情報の中には、スペインがこれまで支配下に治めた領地で行ってきたこと、特にアメリカ大陸で先住民たちを殺戮しまくって、資源を好きなだけ収奪してきたことも。カトリックは貿易・布教の後、軍隊もやって来る。対してプロテスタント諸派は布教に関心はない、貿易だけできればいい。おおよそアダムズからこのような情報を得られたであろう家康は、自身も過去、三河の一向一揆で悩まされた経験からカトリックを警戒、プロテスタントとの関係を強化という方向に傾いていきます。


それでもこの頃の家康には、鎖国という考えはありません。初めて見たイングランド人のウィリアム・アダムズを外交顧問として重用したように、その目は世界を向いていました。慶長六(1601)年、事実上の日本の最高実力者となった家康は、フィリピン総督に充てて朱印状貿易を申し込みます。スペイン領メキシコで行われていたという、アマルガム法という金銀精錬法を日本に導入するためです。この仲介に一役買ったのも、外交顧問として重用されるようになったウィリアム・アダムズであるとされます。


幼少時より今川義元に人質として取られ、その後も織田信長や武田信玄といった、周囲の強者たちの間を巧みに生き抜いてきた家康には、複数の勢力の均衡を図りながら、巧みに利益を取り込む術が身についていました。こういうしたたかな外交が家康には、そして戦国期の日本に出来たのも、日本にはヨーロッパ諸国に「この国にはそう簡単には攻め込めない」と思わせるだけの武力があったからです。いつの世も、外交と軍事は車の両輪、どちらが欠けても国の行く末を誤るのです。


こうして天下人となった家康は、征夷大将軍として日本国内の安定を図りながら、一方で外交顧問アダムズを通じて、カトリックとプロテスタントがせめぎ合うヨーロッパ情勢をも視野に入れていくことになります。それまで外交と言えば中国大陸と朝鮮半島だけがその相手であった日本に、ヨーロッパという新たな視点が加わることになりました。



今回はここまでで。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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