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繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
前回のブログでは、ナポリ王国のフェルディナント王死去までを書きました。これを受けて、ナポリ王国の継承権を主張するフランス王・シャルル八世はどう出てくるか?
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(左)フランス王・シャルル八世
(右)ローマ教皇・アレクサンデル六世
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シャルル八世という国王は、やや、というよりもかなり誇大妄想癖のある国王でした。幼少の頃より、アンボワーズ城で「ケガしないように、病気しないように」とそれそれは大事に、いや過保護に育てられました。父ルイ十一世と会ったのが、父が死去するまでの十三年間でたったの二度。それ以外、接する人といえばほとんど母とその侍女ばかり。この環境がシャルル八世の性格をかなり歪んだものにしたことは否めないでしょう。長じてからは「夢想家・世間知らず」と評されるような性格の王に育ちました。現代風に言えば「中二病」「ピーターパン症候群」「大人になり切れない…」といった、ちょっとイタイ感じの人です。
こんな性格の王に、ミラノ公イル・モーロは「国王こそが真のナポリ王です」と持ち上げ、教皇インノケンティウス八世は「対トルコ十字軍のため、王がナポリに君臨すべし」とささやきます。こんな話を聞かされたシャルル八世は、俄然その気になり、妄想癖をますます膨らませます。周囲の臣下たちの諫めも耳に入りません。もうすっかりナポリ王になって、自分の旗振りで対トルコ十字軍が出発。オスマン・トルコ帝国も破って聖地エルサレムを開放し、全キリスト教徒の王として君臨する。そんな妄想に憑りつかれています。もっともインノケンティウス八世は、フェルディナント一世との対立が解消されると、すぐにその破門処分も解きます。そしてシャルル八世への甘い囁きは、いつの間にかうやむやになってしまうのですが…。
それでもシャルル八世は「そんなの関係ねー」とばかりに、ナポリ制服という大仕事の前に後顧の憂いをなくすべく、周辺国との調整に勤しみます。ヨーロッパの中心部分に位置するフランスは、好むと好まざるとに関わらず、周辺国との間に次から次へと問題が発生します。まずスペインを支配するカトリック両王、イサベル一世・フェルナンド二世の夫婦国王とは、ペルピニャンとルシヨン伯領を返還することで、ナポリ王国を支持しないことを取り付けます。東隣の神聖ローマ帝国皇帝・マクシミリアン一世とは、かつて自身が一方的に婚約破棄して、さらにフランスに留め置いていた皇帝の娘マルグリットの身柄、それに一部の領土を皇帝の長男フィリップに返還。こうして懸案を解決したシャルル八世、あとはナポリ王国に軍を進める大義名分ができるのを待つだけ。そこに舞い込んできた、フェルディナント一世の死去。シャルル八世、今や堂々とナポリ国王即位を宣言します。
さて、ナポリ王国では前国王の死去により、長男のアルフォンソがアルフォンソ二世として即位します。当然、シャルル八世はこれを認めません。ローマ教皇にも、この新国王即位を認めないように要請します。この時、ローマ教皇はスペイン・バレンシア生まれのロデリク・ボルハが、アレンクサンデル六世として即位しています。前教皇のインノケンティウス八世は反スペイン派で、シャルル八世に「ナポリ王、そして十字軍」と耳当たりの良い言葉を連発しましたが、今度のアレクサンデル六世は曲者です。叔父に呼ばれてローマに来た時、すでに母親不明の庶子二人。教皇庁仕えになってからも、「聖書よりも金儲けと女漁りに熱心」と陰口を叩かれるほどの素行の悪さ。性病にかかって、当時の上司である教皇ピウス二世に叱責されるものどこ吹く風で、ローマの宿屋の女主人(とされる)との間に四人、その他の身元不明の女性たちとの間に五人の子供をもうけるご乱交。しかしながら聖職者としてよりも、政治家としての駆け引き・決断力には長けており、また教皇に選ばれるぐらいですから、知識・教養などは抜群のものでした。そのためこのアレクサンデル六世の評価は、「史上最悪の教皇」から「バランス感覚に優れた政治家」まで、幅広いものです。
この曲者のローマ教皇・アレクサンデル六世が、前教皇インノケンティウス八世の政策を覆し、アルフォンソ二世のナポリ王即位を認めます。アレクサンデル六世はそれによってフランスの影響力が増すことを好みませんでした。歴代のローマ教皇の政策は常に「イタリア半島にローマ教皇庁を脅かす強力国家を作らせない」です。イタリアで統一国家形成が遅れたのは、まさにこのローマ教皇の存在とその政策ゆえです。その時々の情勢で、スペイン王・フランス王・神聖ローマ皇帝と、組む相手を変えていきます。この時は、フランスが強くなりすぎることを警戒しました。
このローマ教皇の豹変にも、しかしながらシャルル八世はその妄想を挫けさせることなく、委細構わずナポリ王即位宣言を強行。そして1494年3月、ついに三万の大軍を率いてアルプスを越え、イタリア半島に進攻を開始します。こうして約半世紀に及ぶ「イタリア戦争」の幕が切って落とされました。
都市国家同士の規模での戦闘しか経験のないイタリア人たちにとって、領域国家として高度にまとまりつつあるフランス王国の大軍三万は、それはそれは腰を抜かすほどのものでした。とても戦う気など起こらず、ただ所領を何事も起こさせずに通過させる、それしか出来ません。9月にサヴォイア公国のトリノ入城。続いてフランス王を呼び寄せた張本人、イル・モーロのミラノ公国と、ここまで全く無抵抗の無血開城。そして一路南下して到達したフィレンツェ共和国では、説教師サヴォナローラが「これは神の下した試練」と恐怖を煽り、それに乗せられた市民たちがメディチ家を追放。さらに無人の矢を行くがごとく南下するフランス王軍は、行く先々でイタリア人たちを恐怖のどん底に陥れます。
そして1494年も押し詰まった12月31日、フランス王軍が到達したのは教皇が待つ、永遠の都にして世界の首都、ローマ。夢想に駆り立てられるフランス王・シャルル八世と、「教皇としては最悪でも政治家としては超やり手」の曲者のローマ教皇・アレクサンデル六世の対決です。さて、この勝負の結末やいかに…?
この続きは次回のブログで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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