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繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
前回のブログでは、【カンブレー同盟】の諸国(実質は教皇とミラノ)と、それに対抗するフランス・ヴェネツィアが北イタリアの覇権を賭けて相まみえる形勢となるまでを書きました。
さてその【カンブレー同盟】ですが、その同盟を主導した、【戦争屋】というおよそローマ教皇に似つかわしくない異名を取ったユリウス二世が死去(1513年2月)。その二か月後にメディチ家出身の新教皇・レオ十世が新たに【神聖同盟】を結成します。しかしレオ十世は、前任のユリウス二世ほどには「戦争」が好きではなく、同盟の音頭は取ったものの、主体的な役割は果たしません。ちなみにレオ十世、37歳での即位はローマ教皇としては最年少の即位でしたが、それだけではなく「最年少にして、最も醜男の教皇」という、あまり嬉しくない異名ももらっています。
そんな醜男の教皇に代わっても、フランスを取り巻く四面楚歌の情勢は変わりません。それでもフランスは、ある意味で戦争慣れしています。また「反仏同盟」を結ばれて、周囲が敵だらけになることにも慣れっこです。同盟各国が戦争準備も足並みも整わずにもたもたしているスキを突いて、再びロンバルディアとミラノ公国に進攻。スイス同盟が据えたミラノ公、かつてのイル・モーロの息子マッシミリアーノ・スフォルツァがミラノ公に復帰してはいたものの、全く市民の支持を得ていなかったこともあって、難なく攻略に成功し、再びミラノを領有。さらに勢いに乗ってノヴァーラに兵を進めるも、ここでスイス傭兵軍に大敗。せっかく手にしたミラノを再び放棄し、のみならずスイス傭兵軍に国境を越えてフランス国内のディジョンにまで追撃される始末。
この敗戦に呼応するかのように、神聖同盟の各国軍もやっとフランスに進攻。北からはヘンリ八世のイングランド軍、南西からはフェルナンド二世のスペイン軍、北東のフランドルからは皇帝マクシミリアン一世。当時のヨーロッパのオールスターともいえる、錚々たる顔ぶれの君主たちがフランスに攻め入ってきます。これだけの顔ぶれを一度に敵にしてしまうのですから、フランスという国も決して昔から外交が上手だったわけではありません。歴史の荒浪に揉まれて、段々と成熟していったのです。ワインが時間をかけて熟成していくように。
しかし神聖同盟側も、これだけのオールスターキャストをまとめる総指揮官が不在であったため、各地での個別の勝利を戦争全体の勝利に結びつけられません。それにこうして各国に染めこまれると発揮される「フランスの火事場のくそ力」もあって、戦況はやがて膠着。加えて、フランスという国が一気に弱くなってしまうことを望まない、ヨーロッパ人たちの根底に流れる「勢力均衡」の精神がここでも表れて、まずはイングランドが希望する領地を得られないとなって、勝手に単独和平を結んで同盟を離脱。
一方フランスも、9月14日にスイス同盟と結んだディジョン条約で、ミラノやジェノヴァといった北イタリアの要衝放棄と、高額の賠償金を求められます。当初ルイ十二世は「これはトレムイユの越権行為」としてゴネますが、再度スペイン王フェルナンド二世と結んだ条約で、ルイ十二世の王女ルネがマクシミリアン一世・フェルナンド二の共通の孫であるカールかフェルディナンドのどちらかと結婚する時に持参すると、数年後に先送りはされました。がしかし、結局は北イタリアを失うことがほぼ確定。フランス王軍もまた、個別の戦闘では強さを発揮し、何度反仏同盟を結ばれてもそれを打ち破るだけの兵力と火事場のくそ力があるのですが、それを外交・政治的に勝利に結びつけることができません。シャルル八世の時からやってきたこの戦争が一体何のためだったのか?という結末になりました。
そしてまるでシーソーゲームのように、ミラノ公を手にしたり失ったりしてきたフランス王ルイ十二世が、1515年1月1地にに死去。男子の跡継ぎがいなかったため、フランス王位はその分家筋に当たるアングレーム家に。アングレーム伯フランソワが、フランソワ一世として即位します。このフランソワ一世がまた、歴代の王に輪をかけてミラノそしてイタリアへの野心満々の王であったため、ヨーロッパ情勢は一向に落ち着きません。
フランソワ一世は即位すると息つく暇もなく、イタリアへ侵攻。マリニャーノの戦い(1515年)で、当時最強を謳われたスイス人傭兵軍を、大砲の力で完膚なきまでに粉砕して圧勝。ミラノ公国の再奪還に成功。スイス同盟はこのあまりの大敗に、「もう傭兵の輸出は程々に、他の産業にも力を入れよう」と、一国の産業構造を変えさせるほどのインパクトでした。またフランソワ一世は、晩年のレオナルドダヴィンチのパトロンとなって、フランスにルネサンス文化を花咲かせた国王でもあります。
フランソワ一世はミラノ公国領有の勢いに乗じて、お隣ドイツ・神聖ローマ帝国の皇帝への野心も芽生えます。皇帝位は各国の王位と違って、七人の選帝侯による選挙制。長年の慣習としてドイツ諸侯やハプスブルク家から出ていますが、別に「フランス王は資格なし」と決まっているわけでもありません。「それなら余が名乗り出てもよかろう」と1519年、マクシミリアン一世死去に伴う皇帝選挙に立候補。しかしそこにはもう一人、後に終生のライバルとなる男も名乗り出ていました…。
この続きは次回のブログで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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