「サン・バルテルミは一日ではなく、一季節だった」
(フランスの歴史家ジュール・ミシュレ サン・バルテルミの虐殺を評して)
画像 『サン・バルテルミの虐殺』フランソワ・デュボワ(1529-1584), ローザンヌ美術館
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繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
1572年8月18日に行われた、ナヴァール王アンリとフランス王妃マルグリットの結婚。この祝典を一目見ようと、フランス全土から駆け付けていた多数のカトリックとユグノー。この両者から醸し出される緊張の中で行われた挙式と、その後の宴の日々。
何とかこれで、打ち続く宗教内乱も一区切りつくのではないか?そんな淡い期待は、一発の銃声かき消されます。
8月22日、コリニィ提督撃たれる、という重大ニュースが飛び込んできます。幸いにも急所は外れ、一命は取り止めますが、ユグノー側は激昂。お祝いムードは瞬時にして消え、緊迫感が高まります。激昂したのは提督を父と仰ぐシャルル九世も。提督に「必ず犯人を突き止める」と約束。翌23日、実行犯はモールヴェールという殺し屋であると突き止めます。そして王宮ではシャルル九世、カトリーヌ、アンジュー公アンリほか主だった者たちが集まって会議。しかしこの会議の内容が詳らかならず。ただ最後にシャルル九世が、「皆殺しにしてしまえ!」とやけっぱち?ともいえる一言を発したとされ、その一言によって方針は最終決定。それはパリに集まっているユグノーたちの徹底弾圧と、ユグノー有力者たちへの襲撃。それは父と仰ぐコリニィ提督も含むもの。真の主謀者はカトリーヌで、「何かと邪魔なコリニィ提督を排除するため」など諸説ありますが、確証はなく真相は闇の中。ただ史実としては、この決定でユグノーへの大虐殺が繰り広げられました。翌24日が聖バーソロミュー(バルテルミ)の祝日だったことから、「サンバルテルミの虐殺」と呼ばれる事件です。
8月24日に始まった虐殺、終わりがいつかは混乱状態ゆえにはっきりしませんが、パリ市内では四千人のユグノーが殺され、「セーヌ川の水が赤く染まった」とされるほど、猖獗を極めたものになりました。一度は一命を取り止めたコリニィ提督も、今度は屋敷まで襲撃を受けて命を落としています。虐殺はパリだけにとどまらず、フランス全土に広がり、犠牲者は一万五千~二万人と推定されています。この報せを受けたローマ教皇グレゴリウス十三世は、虐殺を祝福して讃美歌「テ・デウム」を歌わせました。この虐殺をローマ教会が正式に非として認めるのは、428年後の西暦2000年、教皇ヨハネパウロ二世が謝罪することによってです。
この虐殺をきっかけにユグノー派もまた立ち上がり、第四次ユグノー戦争(~1573)が開始されます。しかし6月にジャンヌ・ダルブレ、8月にコリニィ提督と重要人物が相次いで死去し、その婚姻にケチが付いたナヴァール王アンリがパリに囚われたまま。両派の間で戦闘が繰り広げられ、ブーローニュの和(1573年)で休戦。カトリック側で指揮を執っていた王弟アンジュー公アンリが、ポーランド王に選出されたため。1572年、ポーランドではジグムント二世が死去し、ヤゲヴォ朝が断絶。ポーランド議会は「国王を選挙で選出する」と宣言。この選挙にはアンジュー公アンリのほか、皇帝マクシミリアン二世の子エルンスト大公、スウェーデン王ヨハン三世、ロシアのイヴァン四世など、外国の君主数人が候補に立てられ、その中からアンジュー公アンリが選ばれます。ポーランド王としては「ヘンリク・ヴァレジ」と呼ばれます。
この時のポーランドは、その領土は西は現ドイツ領まで、東は現ロシア西部辺りまでという大国です。意外かもしれませんが、戦争をやれば諸侯に分裂しているドイツよりも、いまだツァーリの支配が完全には確立されていないロシアよりも強かったのです。しかし国と国民の統合の象徴たる国王を、選挙で選ぶというのはまだしも、よりにもよって外国から連れてくる。こういう不甲斐ないことを始めたから、その後のポーランドはスウェーデンやロシア、オーストリア、プロイセンに次々と脅かされる小国に成り下がってしまいます。国王と為政者は、その国で生まれ育った者から選ばれるべきなのです。会社経営者やスポーツチームの監督を外国人に任せるのとは、全く次元が違います。
さてフランスに目を戻すと、ナヴァール王アンリはサンバルテルミ事件以後、パリの王宮に囚われの身となり、カトリックに改宗させられています。母太后カトリーヌ・ド・メディシスの奇策による結婚したマルグリットとも、虐殺事件でケチがついてしまったか、以後の二人はほぼ「仮面夫婦」状態です。もっとも二人とも、それをいいことに愛人たちと楽しんでいるわけですが…。そのナヴァール王アンリは、1574年2月28日、王の弟アランソン公フランソワと共に脱出に成功。アランソン公は国王総代の地位を理由も分からずに取り上げられたのが、この脱走の原因になります。アランソン公フランソワは国王への野心満々なのですが、末っ子のため兄たちが跡継ぎを生さずに死去する以外に、自身の国王への道は開けず。しかしながらその野心を抑えることが難しく、この後度々、フランス王家にとってのお騒がせ人物になります。
そしてシャルル九世の健康状態は悪化の一途をたどり、もはや国王の任に堪えられず、カトリーヌが実質国王のように。1574年5月30日、シャルル九世はヴァンセンヌ城で結核も併発して二十四歳の若さで死去。最後の一言は「それでは母上、お先に」。強すぎる母と時代の激流に太刀打ちするには、あまりに線が細すぎる国王でした。
シャルル九世にも男子の跡継ぎがおらず、フランス王位はつい先ごろポーランド王に選出されて、今はかの地のクラカウにいる、アンジュー公こと弟のアンリに巡ります。ポーランド王ヘンリクことアンリ、当然ながら兄の死によって巡ってきたフランス王の話に歓喜します。この頃はまだ東欧の大国とはいえ、フランスから見れば「ヨーロッパの辺境」にしか感じられないポーランド王よりも、やはり自分が生まれた、しかも今やヨーロッパ有数の大国であるフランス王位の方が断然輝いて見えるのは致し方ありません。しかしながら、せっかく選出した国王をそう簡単に戻すわけにはいかぬとあって、ポーランド王宮も監視を強化。その監視の網をかいくぐって1574年6月18日、数名の家臣たちと脱出を敢行。すぐに気がついたポーランド側も追っ手を出しますが何とか振り切り、ウィーン→ヴェネツィア→フェラーラ→マントヴァ→ミラノ→トリノとイタリア各都市を巡って9月、リヨンに到着。母カトリーヌに迎えられ、翌75年2月13日にランスで戴冠式。アンリ三世として正式にフランス王に即位します。
その頃のヨーロッパ情勢は?といいますと、スペインは覇権国として盤石の地位は保ちつつも、ネーデルラントの反乱に手を焼いています。イングランドも内には亡命女王メアリ・ステュアートという火種を抱え、女王エリザベス一世は各国からの求婚と国内カトリックによる暗殺計画を、相も変わらずのらりくらりとかわしながら、治世を続けます。
ここにフランス王の弟、アランソン公改めアンジュー公フランソワが一枚噛んできます。1578年2月、再び王宮を脱走して、ネーデルラントへ向かい、オラニエ公ウィレムら現地有力者らと接触して、スペインからの独立機運の高まるネーデルラント(オランダ王)に色気を隠さず。条件はフランスの支援を引き出すこと。そんなことをしたらスペインとの全面戦争が避けられないアンリ三世とカトリーヌは、あの手この手で王弟の抱き込みを図るも不調。1579年9月に、ユトレヒト連合との条約で、アンジュー公フランソワがネーデルラント王として即位することが本決まり。ただしスペイン軍を倒せば、という条件。頼みの綱は母国フランスの軍事力ですが、その母国はまさに宗教内戦の真っ最中で、そんな余裕はなし。幸か不幸か、自国の内乱がアンジュー公の無鉄砲を押し止め、スペインとの全面戦争を防いでいるという、皮肉な図式に。
そのネーデルラントは1581年7月26日、北部七州がスペイン王フェリペ二世を廃位しての独立宣言。まだ性懲りもなくこの地の国王即位を諦めていないアンジュー公フランソワは、しきりにアンリ三世とカトリーヌに支援を要請。そしてアンリ三世とカトリーヌが出した条件は、「イングランド女王エリザベスと婚姻せよ」。そうすれば仏・英・蘭の同盟で、十分ハプスブルクに対抗できる。アンジュー公フランソワ、単独イングランドに乗り込んで、エリザベス一世と交渉。しかしエリザベス、自分の結婚を外交交渉の具にして、のらりくらりとかわしながら結婚を先延ばしにして、相手を焦らす名手、外交巧者。しかもこの時イングランドは、かつてのフランス王妃にして前スコットランド女王、メアリー・ステュアートを監禁中。しかも彼女はカトリック。スペイン王フェリペ二世からは再三再四、メアリー・ステュアートの身柄解放求められていますが、それすらものらりくらりとかわしているエリザベス。ここで次期フランス王候補者と結婚なんてしようものなら、こちらもまたスペインとの全面戦争は避けられず。そんな事情もあってエリザベスは、かつて結婚話もあったアンリ三世以上に歳の離れているフランソワを可愛くいたぶります。それでもこの求婚にまんざらでもなかったようで、「思ったよりも(顔が)醜くない」という感想を漏らしたり、「蛙」というあだ名まで付けて親愛の情を示しました。エリザベス、気に入った男性には必ずあだ名を付けます。ひょっとしたらその純な気持ちにほんの少しばかりは心動かされた兆しも見受けられましたが、最後はやはり政治家としての理性が勝って結局は破談。アンジュー公フランソワ、体よくエリザベス一世にもてあそばれた形で、虚しくイングランドを立ち去ることになりました。
ネーデルラントではごたごたが続きますが、その他は至って安泰なスペイン王フェリペ二世。1580年、婚姻関係に乗じて隣国ポルトガルの国王にも即位。ここにスペインはイベリア半島の隣国ポルトガルを一時的(~1640年)に、同君連合という形で併合します。しかし同じ1580年、四番目の妃にして最後の妃アナ・デ・アウストリアが死去という悲しみも味わい、以後は結婚することなく、ますます「書類王」として政務とカトリックへの一途な信仰にまい進する人生を送ります。
本編大河ドラマの主人公・徳川家康はこの間、武田信玄に三方ヶ原の戦いでボロ負け(元亀四・1573年)。恐怖のあまりに脱糞という粗相も。しかし偉いのは、この時の自分の情けない顔を絵に描かせて、その後の戒めとしたこと。その強敵・信玄は同年、京への西上の途上で病死。天正三(1575)年、信長との連合軍で長篠の戦に勝利し、武田氏を滅ぼしています。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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