こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
今回はプロローグとして、その前世紀・十五世紀後半のヨーロッパ史を振り返ります。
当然ながら歴史の流れは、ある日を境にして「この日から十六世紀!」とはなりません。
これは人間が便宜的に作った時間に区切りですから、実際の歴史の流れ、人や国の営みは世紀を跨いで継続しています。
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まず十五世紀、1400年代後半の、ヨーロッパ史の主要事件を以下に列挙して、それぞれについて一つずつ語っていきます。
地図は西暦1500年前後のヨーロッパ地図です。適宜にご参照ください。
①1453年 オスマン・トルコ帝国によるコンスタンティノープル陥落、東ローマ帝国の滅亡
②1453年 英仏百年戦争の終結
③1467年 フランス王朝ヴァロワ家とブルゴーニュ公国とによる「ブルゴーニュ戦争」
④1492年 スペインのカトリック両王による「レコンキスタ(国土回復運動)」の完結
⑤1494年 フランス王シャルル八世のイタリア進攻、「イタリア戦争」の勃発
①1453年 オスマン・トルコ帝国によるコンスタンティノープル陥落、東ローマ帝国の滅亡
トルコ民族は、元々中央アジアにいた遊牧騎馬民族です。それが他の遊牧騎馬民族との淘汰・争いの中で押し出され、西に流れて現在のアナトリア半島に定住するようになります。現在でも中央アジアにトルコ系民族が暮らしていたり、まさしく「トルクメニスタン(トルコ人の土地・国)」を名乗る国が存在するのは、この名残です。1299年にオスマン一世によって建てられた当初は、アナトリア半島の中の小さな侯国でしかありませんでしたが、他の侯国との争いに打ち勝ちながら勢力を拡大。その勢力はやがてアナトリア半島を越えて南はアラビア半島、西は北アフリカ、そして北はバルカン半島にまで拡大。気がつけば東ローマ帝国(ビザンツ帝国)をぐるりと包囲するまでになっていました。
そして1453年、時のスルタン・メフメト二世が満を持して「コンスタンティノープル攻略」を宣言。オスマン軍のイエニチェリと呼ばれる常備軍と圧倒的な火砲の前に、東ローマ帝国も最後の粘りを見せましたが、戦力差は如何ともし難く、ここに東ローマ帝国は千年の歴史に終止符。以後、そして16世紀のヨーロッパの人々は「トルコの脅威」に脅えます。ヨーロッパ諸国の行動も、この圧倒的に強いオスマン・トルコ帝国にどう対処していくか?が外交戦略の重要な点になります。
②1453年 英仏百年戦争の終結
同じ1453年、1337年に英王エドワード三世がフランス王フィリップ六世の王位継承に難癖をつけることで始まった「英仏百年戦争」がやっと終了します。途中はあまりにも色あり過ぎてここでは書けませんが、要約すると黒太子エドワードの活躍や、英王ヘンリ五世の巧妙ななどで、イングランド王はフランス王冠にあと一歩というところまで迫りましたが、土壇場でフランスが粘り切って何とか王国と王冠を死守しました。元々イングランドに比べて豊かな国力があったことに加えて、シャルル五世の瀬戸際外交、シャルル六世が相手の英王ヘンリ五世よりも「数日」長生きしたことで英王から仏王位を守り、最後はご存じジャンヌ・ダルクの「神がかり」。様々なドラマが繰り広げられた末の、フランスの勝利。以後フランスはより王権が強化されて、ヨーロッパ政界の主役に。一方のイングランドは「ばら戦争」と呼ばれる貴族同士の内戦が始まって、国内が混乱を極めます。
③1467年 フランス王朝ヴァロワ家とブルゴーニュ公国とによる「ブルゴーニュ戦争」
この年、フランス王ルイ十一世とブルゴーニュ公国シャルル突進公との間に、領地の帰属を巡る争いが始まります。「ブルゴーニュ戦争」と呼ばれます。王家ヴァロワ家のお家のごたごたに、反国王勢力が加担した、とても複雑な争いです。そしてシャルル突進公の一人娘マリーが突進公の死後、ハプスブルク家の御曹司マクシミリアンと結婚したことで、このブルゴーニュ公国の帰属問題にハプスブルク家までが絡むことになり、ますます複雑化。そしてヴァロワ家(フランス王朝)とハプスブルク家(ドイツ・神聖ローマ帝国)の因縁の対決がここに始まり、この両家の対立が次の16世紀、さらにもっと後の18世紀半ばまで、ヨーロッパ国際政治の主軸となっていきます。
④1492年 スペインのカトリック両王による「レコンキスタ(国土回復運動)」の完結
西暦711年のウマイヤ朝による征服以来、イベリア半島はイスラム勢力の支配下にありました。それから800年かけて、ヨーロッパはイスラム勢力を追い出すことに成功。「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼んでいます。これを成し遂げたのが、スペインのカトリック両王、イサベル一世とフェルナンド二世の夫婦。1479年にカスティーリャ王国(マドリードが中心)のイサベルと、アラゴン王国(カタルーニャ中心)のフェルナンドが結婚することで、ほぼ現在の「スペイン」が出来上がりました。以後、この両王に率いられて国土を回復。ついに1492年にレコンキスタ完遂の運びとなりました。ちなみにこの年は、有名なコロンブスによる「新大陸発見」の年でもありますが、このコロンブスのパトロンとなったのがイサベル一世です。これによってスペインは、新大陸にも他国に先駆けて領地を獲得することになり、その圧倒的な国力で16世紀前半のヨーロッパ国際政界を支配していくことになります。
⑤1494年 フランス王シャルル八世のイタリア進攻、「イタリア戦争」の勃発
この年シャルル八世は、かつてヴァロワ家の分家・アンジュー家がナポリ王国を統治し、最後の王が跡継ぎなしで死去したことで、その権利は父ルイ十一世を通じて自分にある、と主張してイタリア・ナポリに進攻します。これにローマ教皇・神聖ローマ皇帝・スペイン王・イタリアの各諸侯らが組んだり裏切ったりの離合集散を繰り返しながら、イタリア半島の覇権を巡っての争い、約半世紀にわたる「イタリア戦争」がここに始まります。このイタリア戦争が、16世紀前半のヨーロッパ国際政治の目玉となります。これは日本の戦国時代、中国の春秋戦国時代並みに面白いことを保証しますので、詳細は次回のブログで。
改めて、十六世紀ヨーロッパ史を観る上で押さえておきたい、十五世紀の事件
①1453年 オスマン・トルコ帝国によるコンスタンティノープル陥落、東ローマ帝国の滅亡
②1453年 英仏百年戦争の終結
③1467年 フランス王朝ヴァロワ家とブルゴーニュ公国とによる「ブルゴーニュ戦争」
④1492年 スペインのカトリック両王による「レコンキスタ(国土回復運動)」の完結
⑤1494年 フランス王シャルル八世のイタリア進攻、「イタリア戦争」の勃発
です。今日はここまでとさせていただきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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