「パリを取るには程遠かった」
(フランス国王アンリ四世 即位数年後に即位時の状況を振り返って)
画像 フランス国王アンリ四世
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
スペイン国王フェリペ二世が送り込んだ艦隊は、「エリザベス征伐→イングランド征服→カトリック化」という目標を果たすことなく、無残な帰国を果たしました。史上に有名な「アルマダの海戦」はイングランドの勝利で終わりました。
エリザベス一世の宰相・ウィリアム・セシル卿は、この戦いの後の9月、このスペイン艦隊との戦闘を記した書簡で、
「スペイン人がかつて『無敵』と呼んでいた艦隊の不幸については、これで終わりである」
と締め括っています。ここで初めて『無敵』という呼び方が使われました。セシル卿にすれば、「無敵と思われたスペイン艦隊に我が国は勝った!」ということを自慢したかったのでしょう。そしてはるか後年の1884年、スペイン海軍のドゥロ大佐が自身の論文の中で『無敵艦隊』と使用して、時間をかけて定着していきました。負けた相手に呼ばれた言葉がきっかけ、というにも何とも皮肉な話ですが。
ちなみに当時のスペイン人が自国艦隊を「無敵」と呼んでいたことはなく(思ってはいたかもしれませんが)、「いとも幸せなる艦隊」と呼んでいました。そして今では、スペイン海軍が『無敵艦隊』と呼ばれることはなく、サッカーのスペイン代表チームの愛称と化しています(勝ち進んでいる時だけ)。
さて、このアルマダの海戦、スペインは負けはしましたが、その覇権国としての地位にはまだいささかの揺るぎもありません。そしてイングランドが一気に「大英帝国」に駆け上がった、ということもありません。今しばらく、ヨーロッパはスペインの覇権が続きます。
しかし、このアルマダの敗戦が、フェリペ二世の威信を少なからず傷つけ、また各地の反スペイン勢力に少なからず希望と自信を与えたことも事実です。それは「西・仏・英三国志」の一角を占める、フランスの王権を巡る争いにも少なくない影響を与えます。
ここで今一度、フランス情勢をおさらいしておきます。国内を二分して争うユグノー戦争は、1562年の開戦以来、この時点(1588年)で26年続いています。そしてその争いは、「アンリ三世・ナヴァール王アンリ・ギーズ公アンリ」という、三人のアンリによる「トロワ(三人の)アンリの戦い」という図式になっています。アンリ三世はヴァロワ家の現フランス国王、ナヴァール王アンリはブルボン家の当主にしてユグノーの旗頭。ギーズ公アンリはギーズ家の当主にして強硬派カトリック。その背後では、フェリペ二世が手ぐすねを引いています。
アンリ三世はカトリックを信仰しますが、国王として国内の融和を何とか図る立場から、強硬派カトリックのギーズ公アンリとは、相容れない立場。しかも自身にはもはや跡継ぎが望めず、このまま行けばヴァロワ家は断絶。そこで次期王位継承の筆頭であるナヴァール王アンリと密かに通じ、「王位をそなたに譲る最大の条件はカトリックへの改宗」と持ち出して説得を続けますが、ナヴァール王アンリは未だ首を縦に振らず。その間に、ギーズ公アンリはスペインの支援を背後に優勢な戦いを続け、王都パリをほぼ掌握。その勢いでブルボン枢機卿シャルル(ナヴァール王アンリの叔父)を王位継承者としてアンリ三世に力づくで認めさせます(1588年5月)。
パリからも追い出されて、孤独な戦いを続けるアンリ三世ですが、スペイン艦隊の敗戦がアンリ三世の心に再び希望を灯します。「宗教対立を平和裏に収め、フランスをスペインの属国にはしない」。乱世を生き抜くには、残念ながらアンリ三世はやや非力な国王ではありましたが、国王としてフランスを思う気持ちは本物でした。スペイン艦隊の敗戦に呼応するようにして、ギーズ公アンリとカトリック同盟に再度攻勢を仕掛けます。しかしたった一度の敗戦ぐらいではスペインの覇権が揺らがなかったのと同様、その支援を背にしたギーズ公アンリの勢力もいまだ強力でした。またもや一敗地に塗れたアンリ三世は、再びの敗走を余儀なくされ、しかもギーズ公アンリから全国三部会を召集するように強要されます。
その三部会で話し合われることは、国王権限の制限。現国王としてこれ以上はない屈辱。もはやまともに正攻法で行ったのでは勝ち目はなし、と悟ったか。1588年12月、アンリ三世はブロワ城でギーズ公アンリとの会見を望みます。「ギーズ公との和解を望んでいる」と称して。時は乱世。しかも敵対してきた国王からの、何の前触れもない突然の和解宣告。ちょっと政治感覚のある人なら、「これは怪しい、何かある」と感ずるでしょう。しかしこの時のギーズ公アンリ、アンリ三世を完全に舐め切っていたのか。飛ぶ鳥落とす破竹の勢いに、油断したのか、気が緩んだのか。いずれにしても、あり得ないぐらいに平気でのこのこと、しかも護衛もほとんど連れずにブロワ城でアンリ三世との会見に臨みます。
1588年12月23日、ブロワ城でのアンリ三世・ギーズ公アンリの会見。弟のギーズ枢機卿は別室で待機。アンリ三世のいる部屋に入ってきたギーズ公アンリ。その途端、衛兵がギーズ公アンリを押さえつけ、もう一人の衛兵がギーズ公アンリの心臓をぐさりと一突き。哀れ、ギーズアンリ。一瞬の気の緩みが永遠の命取りに。「三人のアンリ」の一角、ギーズアンリ、天下を目前にして儚く散りました。
興奮したアンリ三世は、別室でもはや病床に伏している王母カトリーヌ・ド・メディシスに、「パリの王を殺しました。私だけがフランス王になりました」と報告。これを聞いたカトリーヌは、「まさか?」と絶句したといいます。その母カトリーヌは年が明けた1589年1月5日に死去。あれだけ心血を注いできた「ヴァロワ王家の安泰」も、もはや風前の灯火。それを直接目にすることがなかっただけでも、まだ幸せだったか。富豪メディチ家から嫁いでフランス王妃、そして王母后となりましたが、その心根は「所詮、外国人」でした。やることなすこと、どこか中途半端な感が否めずに、宗教対立を泥沼化させました。
ギーズ公アンリという強敵が消えたアンリ三世は、もはや大手を振ってナヴァール王アンリと同盟を結び、ギーズ家・カトリック同盟との戦闘に乗り出します。ナヴァール王の戦力が加われば、ギーズ家とも互角に戦えます。しかしギーズ家・カトリック同盟も、亡きギーズ公アンリの弟シャルルを新たな当主に立てて、頑強に抵抗を続けます。熱狂的なカトリックでもあったギーズ公アンリの人気はフランス国内でも高かったので、まだそその力は侮れません。
アンリ三世・ナヴァール王アンリ対ギーズ家・カトリック同盟。一進一退の戦いがい続く中での1589年8月1日、アンリ三世の元をある修道士が訪れます。「教皇より仏王にお伝えすることがある」。こういう素性の知れない人物を平気で通してしまう所が、現代と比べて牧歌的ともいえるかもしれませんが、アンリ三世もまたこの修道士を通します。名はジャック・クレマンといいました。クレマンは教皇からのお伝えです、といいながらアンリ三世に近づきます。そしてナイフで脾臓を一突き。アンリ三世はその場に崩れ落ちます。クレマンはすぐさま衛兵に取り押さえられて、その場で殺されます。一命は取り止めたものの、傷は致命的に深く、もはや虫の息のアンリ三世。知らせを聞いてナヴァール王アンリもすぐさま駆けつけてきます。アンリ三世には跡継ぎなし。もしこのままアンリ三世が昇天するようなら、ヴァロワ朝は断絶。そして…。
死を悟ったアンリ三世。枕頭に跪くナヴァール王アンリに向けて、「そちが次のフランス王である」と王位継承を宣言。続いて最期の悲痛な願い、「(カトリックに)改宗せよ」。こうしてアンリ三世もまた凶刃に倒れて、この世を去ります。この結果…、ヴァロワ家の男系は断絶。王位はブルボン家のナヴァール王アンリへと移り、アンリ四世として即位。ここからブルボン朝となります(1589年8月3日)。
しかし国王として「即位する」ことと、国王として「認められる」ことは違います。王位継承の手続きとしては問題ありませんが、何せフランスはカトリックが多数派の国。歴代のフランス王は例外なくカトリック。そこにいきなりユグノー、プロテスタントが国王として即位しても、果たしておいそれと受け入れられるものか…?まだまだフランスの宗教対立は予断を許しません。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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