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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ⑫事件はそれを起こした張本人ルターも置き去りに…

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

良心に反することは確かなことではなく、また得策でもありません。神よ、私を助けてください。アーメン」(マルティン・ルター)


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。


【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


今回も、マルティン・ルターの異議申し立てにより始てまった「宗教改革」の、その後です。


当初、ローマ教皇も教皇庁は、この一連のルターの騒ぎに対して、「何だか、田舎町で騒いでいるようだが…」ぐらいの認識しか持たず、「どうせ、すぐに収まるだろう」と高を括っていました。しかしいつまでも放っておくわけにもいかず、「少しお灸をすえてやろう」ぐらいの軽い気持ちで、マインツ大司教アルブレヒトに命じ、アルブレヒトは修道士テッツェルにルターとの討論会に臨ませます。ここでコテンパンに論破してやれば、ルターも大人しく引き下がるだろうと考えていましたが、ルターは意外にもしぶとく、なかなか自説を撤回しません。


そのルターは1520年、『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト者の自由』という、宗教改革三部作を著します。このルターの主張は、前世紀にマインツのグーテンベルクによって開発された活版印刷機によって大量印刷され、瞬く間に帝国全土に広まり、社会現象ともいえるほどに大きなうねりを起こしつつありました。この活版印刷機の開発は、現代のSNSの普及に匹敵するほどの、当時としては大きな情報革命でした。


ルターの主張するところは、一言でいうと「聖書に立ち戻れ!」という原点回帰です。この当時のローマ教会は「人が救われるためには善行が必要」と、聖書に書かれていない様々な秘跡を信者たちに行わせて、その上がりを懐に入れていました。その最も露骨な現れが贖宥状の販売ですが、こうした教会の腐敗をきっかけにして、ルターは「聖書に書かれていないことをしても、人は救われない。救われの道はただ一つ、聖書への信仰あるのみ」ということを声高に主張します。これがローマ教会の逆鱗に触れました。秘跡などの善行がなくなれば利権が失われることはもちろんですが、それ以上に各人が聖書に基づいた信仰をする、そこに教会が間に入ることなく、各人が直接聖書を通じて神と通じることになれば、教会の存在意義そのものが失われます。教会にとって、これは危険思想以外の何ものでもありません。しかもルターの主張は、活版印刷技術の恩恵もあって、当初の想定をはるかに超えた範囲にまで広まっています。しかもルターは一向に、自説を撤回するつもりはなさそうです。そしてついに、教会にとっての許容範囲を超えました。1520年6月、ローマ教会はルターを破門に処します。


同じような懸念は、新しく神聖ローマ皇帝に即位したカール五世も抱いていました。しかしカール五世は自分が君臨する帝国を、何とか宗教的に融和させる考えでした。1521年4月、カール五世はヴォルムスでの帝国議会にルターを喚問します。ルターはこれに応じて、帝国議会に乗り込みます。


喚問は二日間にわたりました。一日目、カール五世と議会側は、ルターに「帝国の混乱を避けるために、自説を撤回するよう」促しますが、ルターはやはり断固として拒否します。議会側はもう一日だけ猶予を与えようと、翌日再度ルターを喚問します。そして再三にわたるカール五世と議会側の求めにも、ルターが首を縦に振ることは遂にありませんでした。そして最後にルターが放った言葉が、冒頭の「良心に反することは確かなことではなく、また得策でもありません。神よ、私を助けてください。アーメン」です。カール五世は、ルターを帝国追放処分とすることを決定します。


帝国議会での喚問を終えたルターは、ヴィッテンベルクに戻ります。しかし帝国追放処分となったルターには、身の安全が保証されていません。そして案の定、帰路の途中のアルテンシュタインという所で、何者かの襲撃を受け、身柄を拉致されます。がしかし、これはルターのパトロンであるザクセン選帝侯フリードリヒによる「やらせ」でした。フリードリヒ選帝侯はルターの身を案じて、自身の保護下に置きます。そしてヴァルトブルク城に匿います。ルターはそこでゲオルクという偽名を使って潜伏し、聖書のドイツ語訳に勤しむことになります。


ルターの主張は、ある一面ではローマを頂点とする教会の権威を否定するものでしたから、教会と土地や財産への課税を巡って揉め事を抱えている世俗の領主たちにとっては、受け入れやすい部分もありました。ザクセン選帝侯のような有力諸侯がルターを匿うのも、そうした一面がありました。「宗教改革」とは単に信仰を巡る争いだけではなく、世俗の政治的な利害関係も絡んだ、とても複雑な事件なのです。そしてルターも、徐々に一介の神学教授としてではなく、自分を匿い支持してくれる世俗諸侯たちの利害を代弁する、「政治家」としての一面も持ち始めます。


1522年ころから、ルターの主張に共鳴した農民たちが、諸侯に対して反旗を翻す「ドイツ農民戦争」が、特にドイツ南部を中心として吹き荒れます。当初、ルターはこの農民たちの蜂起を支持していましたが、戦いが長引くにつれて「聖職者を皆殺しに!」「教会を全て打ち壊せ!」などの過激な主張が出てくると、ルターは段々と農民たちの蜂起に批判的になります。そしてミュンツァーという指導者が「ルターの主張は生ぬるい!」と批判すると、「農民たちの行動は悪魔の所業だ!」といって、諸侯たちによる弾圧を支持。最終的にこの「ドイツ農民戦争」は、諸侯側が農民たちを徹底的に鎮圧して終わりました。


ルターに関しては、「宗教改革」という事件を神聖視して、どこか聖人君子のようなイメージも持たれがちですが、決してそんなことはありません。ルターには教会を打ち倒す気も、社会を変える気もありません。そして彼自身、この時代においてある程度の「成功者」でもありました。その社会で成功した成功者が、自分が成功した社会を変えよう!打ち倒そう!なんて考えるはずがありません。だから彼は最終的に、自身のパトロンであり支持者でもある諸侯を支持します。しかしそのルターでさえ、この「宗教改革」のあまりの進行の速さに、やがては時代に追い付いていけなくなって、存在感が薄れていきます。1517年の「九五カ条の提題」から1521年の帝国議会でのカール五世との対峙。ここが彼の人生の最大のハイライトだったといえます。


その後も教会側とルター支持者たちとの、信仰を巡る対立は一向に止む気配がなく、時の進行とともにかえって先鋭化していきます。1530年、カール五世はアウグスブルクに帝国議会を招集します。カール五世自身の考えは、何とか対立を融和させて帝国に安寧をもたらすことですが、皇帝の思いも空しく、この帝国議会でも両者の対立はますます激しさを増します。信仰の違いというのは、結局のところ「お互いが大人になって受け容れ、認め合うしかない」のですが、この時点ではまだ両者ともそういう成熟した考えを持つことはできず、ただお互いを排斥しあうことしかできません。そして教会に抵抗する者たちは、文字通り「プロテスト(抵抗する者)」として、プロテスタントと呼ばれるようになりました。このプロテスタント派の諸侯たちが翌1531年、「シュマルカルデン同盟」を結成して、ますます教会派との対立を深めていくことになります。


今回はここまでで。

家康が生まれる1543年(天文十一年)までもう少しです。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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