「我が終わりに我が始まりあり」
(スコットランド女王メアリ・ステュアート、死に際しての言葉」
画像(左)イングランド女王エリザベス一世
(右)スコットランド女王メアリ・ステュアート
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
慶長五(1600年)、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康。三年後の慶長八(1603年)、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、正真正銘、名実共に天下人へ。
その同じ1603年、ユーラシア大陸を挟んだ反対側の島国、イングランドでは…。
45年の長きにわたり君臨したエリザベス一世が、最後の時を迎えようとしていました。
アルマダ海戦での勝利(1588年)によって、名君としての評価をほぼ不動のものとしたエリザベス一世。これを機にイングランドが一気に「大英帝国」への道をまい進した、と思われがちですが、まだ相変わらずイングランドはヨーロッパの端っこに浮かぶ、やっと中堅国になったかという程度の実力です。イングランドが真に世界に覇を唱えるようになるのは、まだまだ先のことです。
エリザベス一世の治世晩年は、貧困対策などの社会問題と王位継承者の問題が、国内の重要課題となります。
貧困問題は、国内のプロテスタント化を進めたことも一因です。これによって各地の修道院が解体され、かつては修道院に収容されていた貧民や捨て子が、野ざらしにされたり、ロンドンなどの都市に流入し始めます。更にはイングランド主要輸出品である羊毛を確保するため、所有者が複雑に入り組んだ農地を豊かな地主らが強制的に統合して、そこで羊を飼いならします。当然、自分の土地を失って追われた農民は、同じく年に流入します。「囲い込み」と呼ばれるこの手法を、当時の人文主義者トマス・モアは「羊が人間を食い殺している」と批判しました。こうして都市に流入した貧民に対して、「救貧法」などの対策が行われますが、貧富の差は拡大します。この状況を憂えた一部の人たちによってチャリティー活動が行われるようになり、それが現代まで続くチャリティ文化として定着している側面もありますが、この貧富の格差拡大は、女王の治世の暗い面の一つと言えます。
もう一つは王位継承者。エリザベス一世は「処女王」と呼ばれます。生涯、独身を通しました。この「処女王」の異名は、「結婚をしなかった」という意味での処女です。いわゆる愛人は、ロバート・ダドリー卿はじめその時々でいましたので、堅物でもなかったようです。それなりに女性としての楽しみも味わっていたのでしょう。肉体的に処女だったか?そこは大人として、野暮な詮索はやめておきましょう。
しかし独身を通したのは事実ですから、当然のごとく王位継承者となる跡継ぎはいません。側近たちは口を開けば、「陛下、ご結婚を」を懇願してきましたが、エリザベス一世は自信の結婚によって外国の影響力がイングランドに及ぶことを警戒してか、お見合い話が来ても散々に相手を焦らした挙句、「やっぱりできない…」と破談に持ち込むことが十八番でした。
そのエリザベス一世にも、遂に最期の日が訪れます。1603年3月24日、最期の最期はうつ病の症状がかなり深刻で、四日間座り込んでそのまま動けず、そのまま69歳の生涯を閉じました。
さて、イングランド王位の行方です。エリザベス一世はこれもまた政治問題化と国内の混乱を警戒して、王位継承者を明言しませんでした。しかしおそらくは、一部の側近たちとは打ち合わせていたでしょう。女王の死がいよいよ目の前の現実として迫ってくると、宰相ロバート・セシルの動きは迅速でした。ロバート・セシルはある国の王と交渉に入ります。そしてエリザベス一世の死と時を同じくして、次期国王が発表されました。それは…、スコットランド国王ジェームズ六世が、イングランド王ジェームズ一世として即位、というもの。。
このジェームズの母は、かつてエリザベス一世により斬首された、あのメアリ・ステュアートです。メアリがイングランドに亡命後、ジェームズは側近たちにプロテスタントの君主として教育を受け、育てられます。母メアリの記憶がほとんどなかったジェームズは、母の斬首に際しても、ほとんど感情を露わにしなかったといいます。ではなぜ、このジェームズに白羽の矢が立ったのか?母がメアリ・ステュアート、ということはその血筋をたどっていくとテューダー朝の創始者ヘンリ七世に行き着きます。しかも母メアリと違ってプロテスタントということもあり、次期イングランド王として過不足なし、と判断されたのでしょう。
このエリザベス一世の死去により、テューダー朝は断絶。ジェームズ一世の代からはステュアート朝となります。メアリ・ステュアートはその死に際して、冒頭の言葉を遺しました。彼女自身は悲劇的ともいえる最期を迎えましたが、本人が知ってか知らずか、意識しての発言か、息子が自分が焦がれても就けなかったイングランド王となりました。メアリ・ステュアートから見れば、
「女王同士の勝負(一騎打ち)に負けはしたが、王位継承という試合(自身の血筋が続いている)には勝った」
というところでしょうか。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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