「世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った」
(オランダに伝わる格言)
画像 オランダ独立戦争を取り巻く国際情勢の風刺画。
牛(ネーデルラント)に跨る(支配する)スペイン王フェリペ二世。
そのフェリペ二世にバレないように、牛(ネーデルラント)にエサ(資金援助)を与える
イングランド女王エリザベス一世
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
16世紀も半ばを過ぎた1560年代。ヨーロッパではドイツ・神聖ローマ帝国の影がやや薄くなり、スペイン(西)・フランス(仏)・イングランド(英)三か国による、「西・仏・英三国志」ともいえる状況になります。
表の大河ドラマの主役である徳川家康は、ちょうどこの頃、今川義元の先陣として桶狭間の戦いに出陣(1560年)。その義元が信長に敗れ、今川軍が打ち捨てた岡崎城に入城。そして今川氏と断交して、新たに織田信長と「清洲同盟」を結ぶ頃です。まだ名前は「松平元康」を名乗っています。
さて、目を再びヨーロッパに転じます。「西・仏・英三国志」とはいいますが、本家の三国志で曹操の魏が、孫権(呉)・劉備(蜀)を国力では圧倒していたのと同じで、こちらの三国志も国力ではスペインが圧倒。フランスはその半分行くか行かないか。イングランドはさらにそのフランスの半分行くか行かないか?というほどの国力差です。スペインが何せ本国に加えて、イタリア・ネーデルラント・新大陸(ほぼ現在のラテンアメリカ)を領有しています。
そのスペインの半分行くか行かないか?の国力のフランスが、さらに泣きっ面に蜂とでも言わんばかりに、内乱に突入します。発端となったのは宗教です。ドイツに端を発した「宗教改革」の波は、いやが上にも陸続きのフランスにも影響を与えずにはおきません。
ちなみにドイツでは、「アウグスブルクの宗教和議」(1555年)の成立によって、一応の解決は見ています。内容は「その土地の領主の信仰が、その土地の信仰」。その土地の領主がカトリック信者ならそこの住民もカトリックを、プロテスタントなら住民もプロテスタントを信仰する、というものです。もし領主と信仰が違う場合、税金を払えば移住は認められましたが、庶民にはそう簡単ではありません。この当時は、生まれてから死ぬまで一生をその土地で暮らすという人がほとんどです。移住に対しての心理的ハードルは、今よりも想像できないほどに高いものがあります。ですから大半の人は、「上辺だけはやむなく合わせて…」という態度を取るのですが、そういう不満がやがて積もり積もって大爆発していくことになるのですが、それはもう少し後の時代のお話です。
ところがフランスでは、事情が違いました。フランスのプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれます。1530年代にジャン・カルヴァンという神学者がジュネーブを中心に唱えた、カルヴァン派という宗派が中心となりました。ごく手短にその信仰内容を説明しますと、このカルヴァン派は「予定説」が柱となっています。これは
「神は既に誰を救う、誰を救わないを決めておられる。そこには信仰態度、人格、日々の善行、一切関係なし。誰を救うか救わないかは全て予定されておられる」
です。はっきり言って身も蓋もない内容です。が、それに続けて
「神は人生のあらゆる領域において、特別な務(=天職)をそれぞれにお定めになった。その自分の務(=天職)に大きな満足をもって専念するならば、それは神のために重要ではない仕事などどこにもない」
として、勤労とそれによって得られた富の蓄財を認めました。これが当時の、特に中小の商工業者から大きな支持を集めます。そしてもっと長い歴史スパンで眺めれば、このカルヴァン派が普及した地域(スイス・イギリス・ドイツ北部・北欧そしてアメリカなど)は、資本主義が発展し、対してカトリックが優勢だったスペインやイタリア、南欧一帯は…、ということになっていくのですが、これはあまりにもテーマが大きすぎてここでは扱えません。ただ一言、「カルヴァン派には豊かで有能な商人が多かった」ということは事実です。
さて、そのフランスのユグノーたちもまた、大半がカルヴァン派です。「ユグノー」というのはカトリック側が彼らへの蔑称として呼んでいましたが、逆手にとって自称にしてしまいました。ドイツ語の「アイトゲノッセ(Eidgenosse 盟友)のフランス語訛り「エーグノもしくはエーニョ (Eignot) 」と、フランスの民間信仰の化け物「ユゴン王」が結びついた造語とされます。そのユグノーたちがフランス北東部の小さな町ヴァシーで、集会を開いていました。そこにギーズ公フランソワという、東部ロレーヌを領地に持つ領主がミサのために立ち寄ります。この人、先のサンカンタンの戦い(1559年)では、イングランドからカレーを奪還した武人で、狂信的ともいえるカトリックです。そんな両者が小さな田舎町で遭遇しました。何も起こるな、という方が無理です。案の定、衝突が起こり、武力に勝るギーズ公フランソワ側がユグノーたちを叩きのめしました。これが「ヴァシーの虐殺」と呼ばれる事件です。これにフランス各地のユグノーたちが激昂し、カトリック側も応戦して、各地でより大規模な武力衝突が発生します(1562年)。これをきっかけとして、フランスは「ユグノー戦争」と呼ばれる、約40年続く宗教内乱に突入します。当初は国内の信仰の対立だけでしたが、これに諸外国が絡んできて、複雑な国際問題の様相も呈してきます。
同じ頃、スペイン王フェリペ二世はエリザベート・ド・ヴァロワ(故アンリ二世の娘)と結婚して、フランスとはつかの間の友好関係を結んでいます。元々は前妃マリアとの間に生まれた王太子ドン・カルロスがエリザベートと結婚予定でしたが、自身の妃メアリ一世(前の英女王)死去のため、息子の婚約者を強奪しました。このエリザベートとの間にはイサベルとカタリーナという二女が生まれますが、エリザベート妃は1568年に死去します。同年には王太子ドン・カルロスも死去しています。23歳の若さでしたが、生まれた時から先天性の障がいを抱えていて、「あまり長くないであろう…」と囁かれていました。そのせいもあって父フェリペ2世からはほとんど愛情を得られず、それが高じて父と対立。国外に逃亡しようとしたところを捕まって監禁され、そのまま生涯を閉じました。『ドン・カルロス』というタイトルでオペラや戯曲の題材に、また宝塚歌劇団の演目で上演されたこともあります。
では、亡き王太子ドン・カルロスはどこに逃亡しようとしたのか?それはネーデルラントです。ここでネーデルラントについて説明します。現在この「ネーデルラント」を正式国名として用いているのは、日本では「オランダ」と呼ばれている国です。正式な国名は「ネーデルラント王国」。ネーデルラントとはズバリ「低地(諸州)」という意味です。土地の大半が海抜0m以下のため、灌漑に次ぐ灌漑工事を重ねることで何とか人が暮らせるようにしました。冒頭の格言は、まさにこの地の人々の苦労と自負の念が詰まった一言です。オランダ名物でもある、風車がゆっくり回転する長閑な田園風景。その風車は、海水を汲み取って干拓するためのものです。あの風車には、オランダとオランダ人の、大袈裟ではなく生存がかかっているのです。
ちなみに日本で呼んでいる「オランダ」。これはこの時代に日本に来航したポルトガル人が、このネーデルラント(低地諸州)の中でも、特に勢力のある「ホラント州」(現在は南北に分かれています)のことを、ポルトガル語で「Holanda」と呼んでいました。普通にアルファベット読みすれば「ホランダ」ですが、ポルトガル語はじめラテン系の諸語では、「H」は書かれていても発音しませんので、「オランダ」と発音されており、それが日本で定着した、とする説が有力です。
さて再び話を戻しますと、ヨーロッパ史の文脈で「ネーデルラント」という時には、現代のオランダに加えてベルギー・ルクセンブルクも加えた、いわゆる現在「ベネルクス三国」と呼ばれている地域を指します。そして信仰としては、大まかに分けると現オランダの北部地域がプロテスタント、現ベルギーの南部がカトリック多数となります。
フェリペ二世は「カトリックの盟主」を自称していますから、当然自領内での異端には厳しく臨みます。亡き父カルロス一世(皇帝カール五世)は自身がネーデルラント出身ということもあって、プロテスタントに対しても「何とか融和を」という態度でしたが、スペインで生まれた生粋のスペイン人フェリペ二世には、そんな思い入れは毛頭なく、それがゆえに異端尋問の手段も勢い厳しすぎるものになります。アルバ公爵というスペインきっての猛将をネーデルラント総督に任命し、その総督がフェリペ二世の意を受けて、プロテスタント弾圧を徹底的にやりまくります。
こうなると、冒頭の言葉のように「ここは俺たちが作った!」という自負の念が強い現地の人々は、一斉に反発。反スペイン運動が激化していきます。これを抑えるためにスペインもより多くの軍勢を投入。こうして戦いはエスカレートしていきます。この戦いは後年になって「八十年戦争」とか「オランダ独立戦争」と呼ばれるものになりました。「八十年戦争」とは、1568年に始まったこの戦いが1648年のヴェストファーレン条約でオランダ独立が認められることにより終結した、とするものです。当然ながらかつての「英仏百年戦争」と同じで、八十年間休まず戦争していたわけではありません。
ネーデルラントのプロテスタントたちもまた、カトリック側から蔑称で呼ばれていた「ゴイセン」(乞食)を、逆手にとって自称します。ちなみにこの後、イングランドで出てくる「ピューリタン」という呼び方も、「バカ正直な奴ら」ぐらいの意味の称を自称にしたものです。精神的に図太いですね。そしてこの宗教と政治が複雑に絡んだネーデルラントの戦争も、「ネーデルラント対スペイン」の単純な構図では収まりません。スペインは時にフランスのカトリック強硬派やフランス王家にも協力要請。対するゴイセンたちも同じくフランスのユグノー、そして海峡を越えたイングランドのエリザベス一世にも支援要請。エリザベス一世は表向きは中立を装いながら、陰に隠れてプロテスタントに資金援助を行います。冒頭の絵はその様子を表しています。
この宗教対立に政治の思惑が絡んで、「西・仏・英三国志」はどのように転んでいくのか…?
今回はここまでで。
陸続きのヨーロッパでは、国内問題が容易に国際問題となります。
そしてヨーロッパのカトリックとプロテスタントの対立が、戦国時代の日本にも飛び火してきます。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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