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繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
今回は一六世紀ヨーロッパ史前半の山場、「イタリア戦争」。その発端となったフランス王シャルル八世のイタリア進攻について書いていきます。
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まずそもそも、なぜシャルル八世はイタリアへの進攻に踏み出したのか?
これには攻め入ったフランス、攻め込まれたイタリア(当時はまだ「イタリア」という国は存在していませんが)、双方の事情があり。イタリア半島の情勢から見てみましょう。
十五世紀の半ば頃、1450年代頃からイタリア半島では、主要大国間の戦争がない「イタリアの平和」と呼ばれる状態が約60年間続きます。ここでいう主要五大国とは、北からミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、教皇領国家、ナポリ王国です。この主要五大国が1454年、「ローディの和約」を結ぶことによって勢力の均衡が図られ、約60年間の平和が実現しました。この平和があったからこそ、「ルネサンス」(文芸復興)が花咲き、ダヴィンチやミケランジェロといった芸術家たちが、その腕前を孫文に発揮する環境が整いました。
この「イタリアの平和」実現に尽力したのが、フィレンツェの大富豪・メディチ家のコジモ・デ・メディチ。それを受け継いだのが、長男のピエロはほぼ素通りして、隔世遺伝で祖父コジモの能力を受け継いだ孫のロレンツォ・デ・メディチです。ロレンツォは政治はもちろん、文芸支援にも力を入れたことで、「イル・マニーフィコ(壮麗なるロレンツォ)」なる異名で呼ばれることも多い実力者でした。そのロレンツォが1492年に43歳の若さで死去。メディチ家を継いだのは子のピエロでしたが、どうもこの頃のメディチ家は隔世遺伝が続いたようで、子のピエロはロレンツォの父のピエロの遺伝が強かったらしく、つまりそれほど有能ではなかった、ということです。子のピエロはメディチ家を継ぐと、ナポリや教皇領国家と個別に同盟を結んでしまい、コジモやロレンツォが苦心を重ねながら維持してきた、イタリア五大国の勢力均衡が崩れてしまいます。
ロレンツォという重石がなくなったことで、これまで大人しくしてきた各国も独自の行動を取り始めます。有能な人物がいなくなって、その後継者がそれほどでもない場合、これまで上手く治まってきた秩序がおかしくなる。会社や各種団体など、皆さんの身の回りでもよくあるのではないでしょうか。
まず、現在でも「水の都」として有名なヴェネツィア共和国。この都市は元々がアドリア海に面したわずかな土地と潟を開拓して作り上げられた都市です。東方貿易を通じて海洋都市国家として大発展を遂げてきましたが、1453年のオスマン・トルコ帝国によるコンスタンティノープル陥落と、その後の勢力急伸という地政学の大変動を受けて、イタリア本土での領土拡大を狙います。進むは西のロンバルディア平原。そのために教皇領国家とも同盟締結。しかしこの西進は当然ながら、その先にあるロンバルディアの中心都市・ミラノ公国との利害と対立することになります。
そのミラノ公国には、ルドヴィーコ・スフォルツァがミラノ公です。1476年に甥に当たるジャン・ガレアッツォを追い出して実権を握った傭兵隊長。目が黒くて肌の色も浅黒いその容貌から、「イル・モーロ(ムーア人=ベルベル人)のような」という異名で呼ばれることが多い人物です。ヴェネツィアの行動と、情勢の変化で外交的に孤立を強いられることになったミラノ公国。ここでイル・モーロはどのような手を打つべきか?試案を重ねた結果が、「フランス王シャルル八世の軍隊をイタリアに入れる」ということでした。しかしっまたなぜ、わざわざ外国の王の軍隊を呼ぶことにしたのか?これはこれでまた、歴史に由来する複雑な事情が背景にあります。
この時のフランス王はシャルル八世です。そしてシャルル八世の親戚筋に当たるオルレアン公ルイが、執拗にミラノ公国の継承権を主張していました。果たしてその理由は…?オルレアン公ルイの曾祖母に当たるのが、ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ。そうです、スフォルツァ家の前のミラノ公であったヴィスコンティ家から、オルレアン家に嫁いだ女性です。この婚姻時に両家で結ばれた契約の一文に、「ヴィスコンティ家の男系が途絶えた場合、ミラノ公国はオルレアン家に」というのがありました。
この時のミラノ公国は、1450年ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘婿であった 傭兵隊長出身のフランチェスコ・スフォルツァが、市民の反乱で建てられたアンブロージオ共和国を倒して再興したものです。その後のフランチェスコ・スフォルツァは、フィレンツェのコジモと意気投合して「イタリアの平和」を築き、ミラノの統治も安定させます。ですがその継承の実態はよく言えば女系による継承、あけすけに言えば傭兵隊長による公国乗っ取り、クーデタ政権と言えなくもありません。少なくとも完全に男系の継承ではありません。その後、ガレアッツォ(子)、ジャン・ガレアッツォ(孫)とフランチェスコの血筋が続き、フランチェスコの四男であるイル・モーロが、甥ジャン・ガレアッツォを追い出して実権を握っています。こんな経緯がありますから、イル・モーロとしてはオルレアン公ルイの言い分は、「そこを突かれると痛い…」ものです。このようにして、ミラノ公国にはフランスからの圧力もありました。しかしこの圧力をかわすもう一つの継承問題が、やはりフランスにありました。それが国王シャルル八世とナポリ王国の関係です。
1480年、ナポリ王国で最後のアンジュー家国王のレナート一世(ルネ・ダンジュー)が死去したことで、これ以後ナポリ王国はスペイン・アラゴン家との同君連合、しかし実質アラゴン家の支配に入り、アラゴン家がシチリア島と併せて南イタリアに君臨することになりました。しかしルネ・ダンジューは死に際して、所領を含めた王国の権利一切を時のフランス王・ルイ十一世に譲渡していました。そしてルイ十一世亡き今、その権利はシャルル八世に引き継がれています。つまり、シャルル八世にはナポリ王国の国王に即位する権利がある、ということです。ここに目を付けたミラノ公イル・モーロ。シャルル八世の目をミラノから逸らさせるために、シャルル八世にナポリ王即位の甘い汁を持ち掛けます。「ナポリの正統な王は陛下をおいて他にはいません」と。そして1494年1月、ナポリ王フェルディナント一世が死去します。
さあ、これでフランス王シャルル八世、どのように出てくるか…?
この続きは、次回のブログで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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