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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ⑭本国よりも日本での方が有名なあの人物、来たる

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

神のより大いなる栄光のために Ad Maiorem Dei Gloriam

(イグナティウス・ロヨラそしてイエズス会のモットー)


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。


【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。



皇帝カール五世の退位は、一つの時代の終わりを告げる出来事でした。それは


もはや一人の皇帝による普遍帝国の時代の終焉


を告げるものでした。少なくともヨーロッパにおいては。ユーラシア大陸のヨーロッパ以外では、西から順にオスマン・トルコ帝国、サファヴィー朝ペルシャ、ムガル帝国(インド)、明(中国)などの大帝国が君臨しています。もちろんヨーロッパでも神聖ローマ帝国は健在ですが、もはや他の諸王国の上に君臨する大帝国とは言えません。数あるヨーロッパの諸大国の中の一つです。


そしてもう一つの「ローマ」であるローマ教会もまた、この一連の「宗教改革」によって、その権威が損なわれました。その権威を回復すべく、トリエント公会議を開催します(1545年)。「カトリック(普遍)」という呼称は、この頃あたりから特に頻繁に使われるようになっていきます。それまではローマ教会を頂点とする信仰が当たり前でしたから、自分たちの呼称を、ことさら意識することもありませんでした。それがこの「宗教改革」によって、「プロテスタント(抗議する者)」たちが現れてきて、無視できない勢力を持つようになり、ローマ教会の存在を脅かし始めます。そこで初めて、ローマ教会は自らの存在意義について真剣に考えました。そして


「自分たちが唱えるキリストの教えは、カトリック=普遍的なものである」


との結論に達し、これ以後特に「ローマ・カトリック教会」と呼ばしめるようになります。人も組織も、「他者の存在を意識することで、自らと他者を区別する」ようになります。

名前を付けて自分と他者を区別する、というのはその最たるものです。


さて、このトリエント公会議は別名「対抗宗教改革」と呼ばれます。はっきり言うと、1517年以降に起こった、一連の「宗教改革」の全否定。そして「ローマ・カトリックの信仰こそが唯一にして絶対に正しい!」ということを、満天下に喧伝したものです。そしてこのトリエント公会議で、ローマ教皇とローマ教会のために体を張って先兵として活躍したのが、「イエズス会」と呼ばれる修道会です。


イエズス会は1540年、正式にローマ教会より修道会としての認可を受けました。設立者はスペイン生まれの修道士、イグナティウス・ロヨラです。ロヨラは少年時代より叙事詩や騎士道物語を愛読し、「将来は理想の騎士になる!」ことが夢でした。ドン・キホーテが実在したかのような人物です。当然ながらその近道は軍人ですが、ペンブローナの戦い(1521年)で、砲弾攻撃により脚に重傷を負います。しかもその後の処置が杜撰を極めたもの。手術した医師は最初はつなぎ合わせようとして失敗、その次は切断を試みてまたも失敗。再度の切断手術も失敗と、今なら完全に高額賠償が請求される医療訴訟ものの無茶苦茶なものでした。結局は片方の脚を短くしたまま残すという、これまた今なら人権問題となること間違いなしの杜撰な処置。これによって軍人の道を断たれたロヨラはしかし、その信仰心は全く消えることなく、それならばと修道士を目指して、ベネディクト会・ドメニコ会などでの厳しい修道に耐えて、スペイン各地で説教を開始。清貧を旨としたやつれはてた姿での説教は、各地で笑いものにされますが、中にはロヨラに共鳴して行動を共にする者も現れました。


イエズス会は軍隊並みの厳しい訓練と修道を課し、残った同士たちで「イエスの部隊」を結成。1537年、ローマに行ってパウルス三世に謁見。教皇から聖地巡礼を認められて、旅費の支援も受けますが、ロヨラは「旅費はいらないから正式の修道会として認めてほしい」と逆提案。そして1540年の正式認可となりました。


このイエズス会の会士たちが、トリエント公会議で大活躍。プロテスタント諸派との論戦で、徹底的にプロテスタント諸派の分裂を突いて、そして「ローマ・カトリックの信仰の絶対的な正しさ」を唱えます。


プロテスタント諸派はまさしく「諸派」と呼ばれているように、多くの派に分かれており、しかも各々の主張が食い違う部分もあります。これはまさしくルター派に端を発した、プロテスタント諸派が抱えるジレンマでもあります。聖書の信仰を通じて、各人が直接に神と向き合う。そうすると仮にA氏とB氏で聖書の文言解釈・受け取り方が異なってくることも十分起こり得ます。極論を言えば十人十色ではありませんが、十人いたら十派、百人なら百派、千人なら千派と、信者の人数分だけの宗派が生まれてしまう可能性だって、否定できません。


これに対してローマ・カトリック教会側は、ローマ教皇とローマ教会を頂点とする、ピラミッド型組織です。この世でのキリストの代理人はただ一人、ローマ教皇のみ。そのローマ教皇が唱えることは、どこまでも信じる。イエズス会はその信念が特に強固でした。こうなると、論戦においてプロテスタント派はイエズス会にまるで歯が立ちません。このトリエント公会議は、途中の中断をはさんで1563年まで足掛け18年ものロングラン開催となりましたが、結論は「ローマ・カトリック万歳!プロテスタントは異端」ということです。


トリエント公会議と並行して、ローマ・カトリック教会はヨーロッパ以外への地域への布教も手掛けるようになります。折しも前世紀から始まった「大航海時代」により、アフリカ大陸の喜望峰周りのアジア周航路が開拓されています。また既にコロンブスが「発見」した新大陸では、スペイン人のコンキスタドール(征服者)たちを先兵に、布教の名を借りた事実上の侵略が行われています。この世界各地への布教でも、イエズス会は先兵として活躍します。このアジア航路には、ロヨラに最初に心酔した二人の修道士のうちの一人が選ばれます。その名はフランシスコ・ザビエル(画像の人物)。日本史の教科書に載っているその「印象的な頭頂部」で、本国のスペインにおいてよりも、おそらく日本での方が有名な、あの宣教師です。


ザビエルは1541年7月、他の3名のイエズス会士と共にリスボンを出航。アフリカのモザンビークを経て、翌42年5月にインドのゴアに到着。そこを拠点にインド各地で布教活動。1545年に現在の東南アジアに移動し、マラッカやモルッカ諸島で布教活動。1547年12月、マラッカで日本の鹿児島生まれの弥次郎(ヤジロウ)に勧められて、日本へ行くことを決意。1549年8月15日、鹿児島に到着しました。ちなみにザビエルを案内した弥次郎(ヤジロウ)は、若いころに殺人を犯して、その処罰を逃れるためにポルトガル船に潜り込んで、マラッカに密航。そこでキリスト教徒になり、通訳などをしていたところをザビエルに引き合わされて日本まで連れてきたという、(おそらくは)日本人初のキリスト教徒とされている人です。


ザビエルは二年ほど日本に滞在し、薩摩から肥後・豊前など九州一円、本州に渡って京にも行き、後奈良天皇や将軍・足利義輝への拝謁も望みますが、献上品がなかったために拒否されます。その後は再び九州を中心に布教活動。滞在中に約600名ほどの信徒を獲得して、1551年11月15日に日本を離れます。以後、再び日本を訪れることはなく、1552年12月に明国の上川島(現中国・広東省)で死去しました。


ザビエル来航の6年前、家康が生まれたのと同じ1543年には、ポルトガル船が種子島に来航。鉄砲が日本に伝来しています。こうして遂に、16世紀の戦国日本と近代に入ろうとするヨーロッパに接点が出てきました。この接点が信長・秀吉・家康という戦国の三英傑の登場によって、より密接なものになっていきます。イエズス会側も、「日本人は文化・教養レベルも高く、布教の市場としてとても有望」とみなして、続々と宣教師を送り込んでくるようになります。


今回はここまでで。

やっと日本との絡みが出てきましたので、ここからさらに楽しくなりますよ。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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