「戦争は他家にやらせておけ。汝、幸いなるハプスブルクよ、婚姻せよ」
(ハプスブルク家の婚姻政策が上手くはまることを表した言葉。発言者は不明)
画像 日本に漂着したオランダ船リーフデ号(Wikipedia使用分より借用)
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
フェリペ二世の死去(1598年)により、後を継いでスペイン国王に即位したのは、四度目の妃アナとの間に生まれたフェリペ三世です。アナ王妃との間に生まれた他の四人の子は、皆早逝してしまい、唯一生き残っていた子でした。この時代の医療水準の低さによる乳幼児死亡率の高さもさることながら、他にもう一つの原因も考えられます。もう少し時代が進めばより顕著に表れてくることですが…、ハプスブルク家の近親婚。近親婚を繰り返し過ぎると、段々と生まれてくる子どもの遺伝子が弱化し、生まれながらに心身に障がいを抱えてしまったり、極端な虚弱体質、精神薄弱などの影響が出やすくなるそうです。
フェリペ二世は生涯に四度の結婚をしています。最初はポルトガル王女アンナ。生まれた子はドン・カルロス一人。23歳で死去。生まれつき心身に障がい。最後は父と対立し、獄死。二度目の妃イングランド女王メアリ一世との間には子供が生まれず。三度目はフランス王妃エリザベート。生まれたのはイザベルとカタリーナ、二人の女子。イザベルはオーストリア大公に嫁ぎ、67歳の生涯。カタリーナはサヴォイア公に嫁ぎ、30歳で死去。最後の妃アナはオーストリア・ハプスブルク家からの嫁入り。既述のフェリペ三世以外に生まれたフェルナンド(7歳)、カルロス(2歳)、ディエゴ(7歳)、マリア(3歳)は、いずれも10歳にならずに死去。
隣国ポルトガルとはこれまでも多数の婚姻が組まれており、その血縁関係はかなり濃いものに。オーストリア・ハプスブルク家は、元をたどれば同族です。最初のアンナ、最後のアナとの間に生まれた子は、生まれつき障がいを持っていたり、早逝したりと、ここに近親婚の影響が見られています。逆に長らく対立していたフランス王家からの妃エリザベートとの間の子は、67歳と30歳、この時代においては平均的かやや長め。もちろん現在の感覚では若すぎる死ですが、そこは時代と医療水準の違いです。
ハプスブルク家、特にスペイン・ハプスブルク家では、世界帝国としての威信もあって、「家格の釣り合わない王室や諸侯、臣下」「非カトリックの王家」との婚姻は、忌避されました。そうなると自然、縁組できる王家は限られてきます。隣国ポルトガル王家かオーストリア・ハプスブルク家。そしてこの傾向は、後を継いだフェリペ三世の治世になると、ますます顕著になってきます。生まれてくる子はますます極度に病弱といった子が増え、その結果は…、それはこのブログで扱う時代範囲を越えてしまうので、ここで止めておきます。加えてこのフェリペ三世は「怠惰王」と異名をとるお方でしたので、そんなお方がさらに近親婚を繰り返すことによって…、まあこの辺で止めておきましょう。
時は進んで西暦1600年。約40年続いたユグノー戦争をやっとの思いで終わらせたフランス王アンリ四世はこの年、結婚します。といってもマルグリットという王妃が?このマルグリットとは、事実上の仮面夫婦。アンリ四世も50歳を間近に控える歳となりますが、いまだに正嫡子、つまり男子の王位継承者がいません。数多い愛人との間には大勢生まれていますが、残念ながら王位継承権は認められません。もはやマルグリット妃との間には望むべくもなく、それならば新しい妃をとなります。そこでまずはマルグリット妃との離婚。揉めるかと思いきや、マルグリット妃は「パリに戻れるなら」とあっさり了承。お次は新しいお相手。アンリ四世は生涯最愛の愛人、ガブリエル・デストレを望んでいましたが、意外にもこれにマルグリット妃が猛反対。「こう見えても私は前王家の血を引く者。その私の次の相手が、田舎貴族なんてプライドが許さない!」という理由。無茶苦茶ですが、複雑な女心も垣間見える理由です。そこで白羽の矢が立ったのが、前王家のヴァロワ家の時と同様、フィレンツェの富豪・メディチ家のマリア。前王の母カトリーヌ・ド・メディシス、またローマ教皇も輩出しており、おまけに大富豪ということもあって、その持参金は財政難のフランス王家の助けになることは確実。マルグリットもこの案は了承。しかも最愛の愛人ガブリエルは産褥死。これにアンリ四世も観念して、メディチ家のマリアと結婚。以後はマリー・ド・メディシスと呼ばれる王妃になります。
同じ1600年、イングランド女王エリザベス一世は東インド会社を設立。スペイン・ポルトガル、さらにはオランダに対抗してアジア貿易に乗り出すために設立した国策会社です。そのイングランドに先立ってアジア進出してきたオランダのリーフデ号という船が、慶長五(1600年)四月、九州の豊後(今の大分県)に漂着します。当初は五隻で航海していましたが、悪天候による離散や沈没などがあり、リーフデ号のみが日本に漂着。乗っているのは当然オランダ人ですが、その中に一人、ウィリアム・アダムズというイングランド人がいました。大坂に回航された乗組員たちは同年五月、大坂城で家康に謁見します。
この半年後の九月、家康はご承知の通り、天下分け目の関ヶ原合戦を戦うわけですが、その緊迫した中でこのヨーロッパ人たちを謁見。ヨーロッパではカトリック(スペイン・ポルトガル)とプロテスタント(主にイングランド・オランダ)との宗教対立が激しいことなど、海外事情を見聞します。この謁見で家康は、特にウィリアム・アダムズと、オランダ人のヤン・ヨーステンをいたく気に入ることとなりました。
こうして家康、そして戦国日本と近代ヨーロッパとの関わりが深くなってきました。カトリック勢力、特にイエズス会は一足先に日本で布教に勤しんでおりまして、特に九州を中心に信者を獲得しています。イエズス会士たちは、このリーフデ号の乗組員たちを即刻処刑にすべし!と進言しますが、家康は聞き入れませんでした。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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