画像 スペインのガレー船を攻撃するオランダ船 Wikipedia使用分より
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繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
1609(慶長十四)年、フィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが、上総国岩和田付近に漂着します。任期を終えてメキシコに帰る途中、悪天候によが座礁・沈没したためです。大多喜城主の本多忠朝に保護されたビベロは、しばらく静養した後に江戸で二代将軍・秀忠と、さらに駿府で家康に謁見します。
ここで家康から「望むところがあれば何なりと」と言われたことで、ビベロは少し勘違いを起こします。家康は「日本にいる間、不自由なく過ごせるように」との、ほんの社交辞令ですが、ビベロのの方は勘違いしたのか、それとも舞い上がってしまったのか、自分がスッペ印を代表する外交使節のような気分になります。そして本多正純を通じて、(一)日本在住の修道会員の厚遇、(二)スペイン・ポルトガル国王フェリペ三世との友好、(三)オランダ使節の日本からの追放、という三カ条を提出します。
(一)(二)はまあ問題ありませんが、(三)は当時のヨーロッパでのごたごたを日本に持ち込むもの。ビベロの言い分としては、「オランダ人はフェリペ三世への反逆者であり、しかも海賊であるから、日本にいさせるとロクなことにならない」というもの。スペインとオランダは、1568年に始まった戦争、後に「八十年戦争」とも「オランダ独立戦争」とも呼ばれる戦争を、戦ったり休んだりを繰り返しながら、ダラダラと続けています。ビベロは同年に、オランダが平戸に商館を開設したことも掴んでいたようです。長崎を拠点とするスペインとは、こちらでもライバル関係になります。それもあってこの時、家康にオランダ人について、あることないことを吹き込みます。もっともオランダ商船が海賊行為をやっているというのは、まんざらでたらめでもなく、しかしながらそれはスペインもイングランドも同じ穴の狢(むじな)。要するにこの時代は、「やったもの勝ち」ということです。
家康はこのビベロの要求を、言を左右して適当にあしらいます。「オランダ人についてのご指摘は大いに参考となった」と、ビベロの顔も立てながら、しかしオランダ人を追放することはしません。家康とすれば当然です。小難しい信仰のことは言わずに、商売にだけ徹してくれる。オランダ人の方がはるかに付き合いやすいのですから。
こうしてビベロを子ども扱いしてあしらった家康は、メキシコに帰る船を提供するから、その代わりにメキシコから銀鉱山の発掘鉱夫を派遣してほしい、と求めます。家康はアダムズらから仕入れた情報で、メキシコで採用されているアマルガム法という最新の発掘技術を導入するのが目論見でした。一方ビベロの方は、フランシスコ会神父のルイス・ソテロにこの後の家康との交渉を託して帰国します。ビベロが帰国する際の船は、すでに家康の家臣となって十年近い月日が経っていたウィリアム・アダムズ改め三浦按針です。
さてビベロから後事を託されたソテロは家康に謁見すると、さらに突っ込んだ要求を出してきます。前出の三条に加えて、(四)関東にもスペインに港を一つ、(五)スペイン船に食糧と資材を提供、(六)スペイン船が運ぶ商品には関税を課さない、(七)メキシコから鉱夫を派遣して銀山を発掘した場合、その四分の一はスペイン王のもの、といった具合に。さらにはスペイン人鉱夫のために、スペイン人司祭と役人を駐在させることまで。いよいよもって、スペインの本音が露わになってきました。最初は人懐っこく布教で入ってきて、修道士や役人が乗り込んできて、最後には軍隊が乗り込んできて、国の乗っ取りを図る、という。ただし、そこは家康も流石です。伊達に戦国の風雲を勝ち抜いて、天下を取ったわけではありまあせん。そうしたスペインの危険性をしっかりと見抜いていました。今後も貿易の関係は続けますが、関税やら役人の駐在といったことはきっぱりと拒否しました。
対してオランダは、平戸に商館を開いたはいいものの、事実上の開店休業状態が続きます。当初のオランダ人はまだ日本の実情をよく分かっておらず、象牙や香辛料などばかり入れてきて、一番人気の生糸が含まれていませんでした。顧客の欲しいと思うものを仕入れて売る。商売の基本はいつの時代でも同じです。
それでも日本の南方の南シナ海においては、オランダがスペインに対して徐々に形勢有利となり、海上覇権を確立しつつありました。オランダ船はスペイン船よりも小ぶりですがその分動きが素速く、その割に大きな大砲を積むことができたので、海上戦を有利に戦うことができた、というのが原因です。スペイン人やポルトガル人は段々と、「オランダ人は海賊」という陰口を言って市場から追い出すという手に頼らざるを得なくなってきました。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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