「私の勇気はあなたのものより大きいのです」
(カトリーヌ・ド・メディシス、ユグノー戦争の戦場視察を危険だからと周囲の者に止められて)
画像 (左)ナヴァール王アンリ(後のフランス王アンリ四世)
(右)ヴァロワ王女マルグリット
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。

【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
先週に引き続き、1570年代前半のヨーロッパ。本編大河ドラマの主人公・徳川家康はこの時期、天下獲りをかけて西上を開始した武田信玄との戦いが増えてきている時期に当たります。
その同時代のヨーロッパでは、二週にわたってお伝えしたように、イングランドではエリザベス一世が、スペインではフェリペ二世が既に十年を超える統治を築いています。エリザベスにはメアリ・ステュアート問題、フェリペにはネーデルラント独立問題と、それぞれ内部に火種を抱えていますが、この両国は概ねこの二人の君主の下で安定した情勢です。
それではこの時代のヨーロッパ「西・仏・英三国志」のもう一方の雄、フランスはどのような状況かというと、打って変わって大混乱です。カトリックとユグノー(プロテスタント)とによる「ユグノー戦争」(1562年~)が、開戦から十年経っても止む気配が見えません。国王はシャルル九世。若くして死去(1560年)したフランソワ二世の弟ですが、実質的に差配しているのは、母太后カトリーヌ・ド・メディシスです。カトリーヌにとっては「王国の安定」よりも「王家の安泰」の方が優先事項で、そのために何とか宗教内乱を治めようとします。しかし根本が「王家の安泰」という私欲が強いものですから、どうしても打つ手打つ手が中途半端というか、骨太感がありません。カトリック強硬派のギーズ公にもいまいち強気に出られず。そこに付け込まれて専横を許す始末です。出身は王族ではなく、フィレンツェの富豪メディチ家。その点を揶揄するのではないのですが、目の前の細かい駆け引きや取り引きはやれても、もっと大きな国家の経綸を担うとなると、どうもその器ではない。やはり土台が都市国家の寄せ集めのイタリア半島での、都市国家同士の政治や商売しか経験していない。近代的な大国に変貌しつつあるフランス、またスペイン・イングランドなどの「大国の政治」を行うのは、徐々に彼女には荷が重くなりつつある、というところです。
その母太后カトリーヌが、宗教内乱終息のための一手として打ち出したのが、自身の娘マルグリットと、ユグノーの領袖であるナヴァール王アンリの結婚です。ナヴァール王国とはスペインとの国境近く、ピレネー山脈の麓にある王国で、小国ゆえにフランスとスペイン両大国に翻弄されてきました。現国王のアンリは父アントワーヌ・ド・ブルボン、母ジャンヌ・ダルブレとの間に生まれました(1533年)。父アントワーヌの家系ブルボン・ヴァンドーム家は、系図を遡っていくとカペー朝のルイ九世に連なります。蛇足ですがこのルイ九世は死後、ローマ教会により列聖され、「聖王ルイ」と呼ばれます。フランス語だと「サン・ルイ」です。後にフランス人植民者が北米新大陸に進出して、その植民地にこの王の名「サン・ルイ」と付けました。ところがイギリスに敗れてその土地を奪われ、英語で「セント・ルイス」という現在の市名で呼ばれるようになります。話を戻しますと、もし当代のヴァロワ家に男子継承者が途絶えるような事態が発生した場合には、ナヴァール王アンリは王位継承者の筆頭となります。また母ジャンヌは、父がナヴァール王エンリケ二世、母(つまりアンリの祖母)が故フランソワ一世の姉マルグリット。故フランソワ一世はアンリから見れば大叔父に当たります。
つまりこのナヴァール王アンリは、父方でフランス王家、母方でナヴァール王家の血筋を引く人物です。父アントワーヌがユグノー戦争初期に戦死したため(1562年)、ブルボン・ヴァンドーム家の当主に、そして母ジャンヌ・ダルブレの死(1572年)によって、ナヴァール王の地位も継承しました。その信仰は、母ジャンヌ・ダルブレの影響を受けてユグノー、つまりプロテスタント。このアンリ、生まれて当初は当然母の影響でユグノーでしたが、幼少期にフランス宮廷に事実上の人質に取られ、無理矢理にカトリックに改宗。その後ユグノー戦争が勃発して、母太后カトリーヌと対立するジャンヌ・ダルブレがアンリを強引に故国ナヴァールに連れ帰って、再びユグノーに改宗という、当年(1572年)でまだ19歳ですが、すでに大人の世界の思惑に振り回されて、人生の悲哀を度々味わっています。
母ジャンヌ・ダルブレは熱心な、を通り越して狂信的ともいえるぐらいのユグノーでしたから、当然ながら母太后カトリーヌとは何かと対立。最初はアンリとマルグリットの結婚にも反対しましたが、「フランスの安定」のために渋々了承。その息子の結婚式(1572年8月18日)参列のためにパリにやって来ましたが、その息子の晴れ姿を目にすることなく、44歳で病死。一説には「カトリーヌによる毒殺説」もまことしやかに語られていますが、真相は闇の中です。
一方の花嫁マルグリットは、カトリーヌと故アンリ二世の間の娘。現国王シャルル九世の妹。幼少期よりギリシア語・ラテン語・哲学に造詣が深く、教養高い宮廷女性として育てられ、また美貌に恵まれたこともあって、各国の宮廷から縁談話が持ち込まれます。
と、ここまで書いた限りでは「何不自由なく育った、絵にかいたような王女」が想像されますが、このマルグリットにはもう一つ別の人格もありました。それは「豪華絢爛な男性遍歴」。兄たちからは「太っちょマルゴ」と仇名されていますが、肖像画を見る限りではいわゆる肥満体系ではなく、ぽっちゃり体型、ほどよい肉付き、「肉感のある」女性だったようです。下世話な話ですが「男が妙にそそられる」タイプ。この当時は、今風のスマート体型よりも、ぽっちゃりと肉付きの良い体型の女性が、より魅力的とされていました。そしてそれ以上に本人は行動派・肉食派だったようで、宮廷の様々な殿方たちとのロマンスが噂されています。そしてそのお相手には何と、実の兄であるシャルル九世、アンジュー公アンリ、アランソン公フランソワといった人たちも。つまりは近親相姦です。このなかなかに強烈な個性を持ち合わせるマルグリットについては、文豪アレクサンドル・デュマが『王妃マルゴ』という作品を書いていますので、興味ある方はそちらを。
マルグリット本人は、ギーズ公アンリがいわゆる「本命」だったようで、真剣に結婚も考えたようです。しかし母太后カトリーヌはギーズ公と結婚されたら、ますますギーズ家の勢力が強まることもあり、しかも何かと奔放なこの娘を早く嫁入りさせようという思惑もあり、「フランスの安定のため」「宗教の融和」という大義名分を掲げて、ナヴァール王アンリとの結婚を決めました。
そして1572年8月18日、パリのノートルダム大聖堂で二人の結婚式が行われます。アンリがユグノー、マルグリットがカトリックということで、両派の儀式を織り交ぜた折衷案での挙式。その後は約一週間にわたって、パリは結婚を祝って、あちこちで飲めや唄えやのお祭り騒ぎが繰り広げられます。しばしの幸福感に浸ったパリ。しかし結婚式から六日後8月24日。この日は「聖バルテルミの祝日」となっていましたが、この聖なる日にパリとフランス全土を震撼させる事件が起こります…。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
今日のブログの内容を、より詳しく知りたい方は、私のこちらの書籍もお読みください。
わかりやすく軽妙なタッチで書いております。
↓
amazonで販売中
ドイツ・フランス・イタリアの三部作
★「未来は作り話」人生を動かす「ものがたり」をあなたにつなぐ
ヒストリーハブアンドスポーク
↓
★歴史の叡智で、人生を (清く)しぶとく・図太く・したたかに 生き抜く!
↓
Comments