「 我が終わりに我が始まりあり」
スコットランド女王メアリ・ステュアート(死の数年前に遺した言葉)
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
さて、長らく触れていませんでしたが、イングランドに亡命中のスコットランド女王、メアリ・ステュアートはどうしているでしょうか?
1568年に亡命してきて、その後イングランド各地の城を転々とさせられているメアリ・ステュアート。すでに(1585年時点で)17年の月日が経過しています。しかしその実態は、「亡命」という言葉がにつかわしくないほどに、自由を認められた生活を送っていました。おそらくはフランス王妃時代以来、スコットランドにいた時よりもはるかに穏やかで心休まる生活であったかもしれません。本人がそう望めば…。
ですがやはりというか、このメアリ・ステュアートという女王は、波乱と激動に自ら踏み入れていくような星の下に生まれたのかもしれません。イングランドに来てからも度々、イングランド王位継承権を主張します。エリザベス一世が触れてほしくないこと。
「メアリ・ステュアートはテューダー朝始祖・ヘンリ七世のひ孫。対してエリザベス一世はヘンリ八世の庶子(母アン・ブーリンは愛人扱い)」
彼女にほんの少しでも政治感覚があれば、いや人の感情の機微を読み取る心があれば、こうしたことは心の内に潜めておくでしょう。ましてや亡命中の身。しかもエリザベス一世は無理に受け入れなくてもいいところを、(渋々ながらも)受け入れて、国内で半ば自由にさせてくれている。こういう一宿一飯の恩がある人が、「そこだけは触れてほしくない」ということを言ってしまう…。こういう人だから、フランスでは義母でもある摂政カトリーヌ・ド・メディシスから追い出され、スコットランドに帰っても国内貴族たちを味方にできませんでした。
それでも、やることが問題発言だけに納まっていれば、まだ救いようがあります。エリザベス一世はメアリ・ステュアートと違って、恐ろしいまでに忍耐力がありますから、堪えるのは何でもないでしょう。もっと問題だったのは、カトリックでもあるメアリ・ステュアートが、イングランド国内のカトリック勢力と密かに通じ合って、「エリザベス暗殺計画」に加担しているのでは?という疑惑が浮かび上がってきたことです。
エリザベス一世の暗殺計画は、1570年頃、まさにメアリ・ステュアートがイングランドに亡命してきた(1568年)のと歩調を合わせるかのように、頻発するようになります。発覚したものから未然に防がれたものまで、その数は諸説ありますが、「女王のスパイマスター」の異名を取るフランシス・ウォルシンガム卿のスパイ網が機能して、ここまでは事なきを得てきました。しかしカトリック勢力は、単に国内だけにはとどまりません。諸外国のカトリック、特にこれが超大国スペインと結びつかれでもしたら、エリザベス一世にとっては一大事です。実際にフェリペ二世はフランスのカトリック強硬派『同盟(リガ)』に支援を与えています。このリガの首領であるギーズ公アンリが、「トロワ(三人の)アンリの戦い」に勝利して、フランス王に測位するようなことにでもなれば、フランスは事実上スペインの属国になります。そしてイングランドのカトリックも、それ自体では大した勢力ではありませんが、メアリ・ステュアートという御輿に担げる君主を戴くとなれば、スペインの支持を得やすくなります。もしこの者たちにスペインの支援が加わった時には、イングランドは…?
並の神経の図太さではないエリザベス一世。表向きは泰然自若を装いますが、内心は気が気ではありません。それはそうでしょう。当時のイングランドはまだまだ小国。スペイン王の軍隊が本気になって攻め込んできたら、ひとたまりもありません。だからエリザベス一世、大きな声では言えませんが、心の奥底では「メアリよ、早く死んでくれ」というのが偽らざる本音です。メアリ・ステュアートが自然に死ぬのであれば、それは誰の責任でもありません。誰しも避けようのない自然の摂理です。しかし良くも悪くも、数々の修羅場をくぐり抜けてきたメアリ・ステュアート。その身体は頑丈で、そう簡単には死にそうにありません。
そんな扱いに困る「迷惑な客人」メアリ・ステュアート。そのメアリが1586年、またもややらかします。国内のカトリック、アンソニー・パビントンが企てたエリザベス暗殺計画。それにメアリ・ステュアートも関与していたことが、ウォルシンガム卿のスパイ網に引っ掛かります。しかもメアリ・ステュアートが積極的に関わろうとしたことを表す、本人の自筆入りの手紙までが押収されて、裁判に証拠として提出されました。
事ここに至れば、何らかのの厳しい処置が避けられなくなってきました。ウォルシンガム卿はじめ側近たちは、メアリ・ステュアートの死刑を主張します。しかしエリザベス一世は、メアリの死刑になかなか踏み切れません。もしメアリ・ステュアートを死刑に処した場合、諸国の反応はどうか?特にスペインのフェリペ二世はどう出てくるか?もしスペインが攻めてきた場合、イングランドは勝てるのか?諸国の援助は期待できるのか?オランダは?フランスのユグノー勢力は?
色々なことを思い巡らしながら、エリザベス一世は彼女一流の焦らし作戦で、なかなか態度を明確にしません。しかしエリザベス一世は、既にもう腹を決めていたのかもしれません。「もはやメアリを死刑に処す以外にない」と。ただ、死刑に即断即決したとなれば、「冷酷無比な英女王」との誹りを受けるかもしれないので、そこは「余もまたか弱き女性の一人である」ということを最大限に利用して、最後まで死刑に逡巡した、抵抗した、でも最後は王国の安寧のためにやむなく断腸の思いで決断せざるを得なかった…、という演出をしたのではないでしょうか。そしてエリザベス一世はそれができる人です。
1586年11月、エリザベス一世は「同国王位を僭称するメアリーは同国の共犯者とともに我が国王を傷つけ、殺し、破壊しようと企てた」と宣告。メアリ・ステュアートの死刑に、表向きは渋々(本音は淡々と?)同意、署名します。
メアリ・ステュアートは義理の姉妹にもなるエリザベス一世に対して、泣き落としで命乞いをしますが、エリザベス一世はそんな甘い手が通用する相手ではありません。死刑執行状に署名してからも、何かと理由を付けて死刑を先延ばしにする小芝居?も交えながら、しかし死刑そのものを取り消すことはしません。この二人の女王、ついにその生涯で一度も対面することはありませんでした。もし体面が実現していたら、どのような会話が繰り広げられたのか?エリザベス一世は側近たちに、折に触れてはメアリ・ステュアートの容姿や上背、身のこなしや服装のことなどを尋ねていた、といいます。メアリ・ステュアートは身長が180センチを超える、当時としては大柄な女性で、(中身はともかく)その見栄えは女王然とした人であったようです。エリザベス一世は、ひょっとしたら「女のプライド」もあって、メアリとの対面を果たさなかったのかもしれませんが、その真意は定かではありません。
そして1587年2月8日、フォザリンゲイ城において、遂にメアリ・ステュアートの処刑が執行されます。長年の幽閉生活でのストレスからか、斬り落とされた首から鬘が外れると、その髪の毛は真っ白。しかもその執行も、一度で一思いに斬り落とされず、三度目でやっとのこと死の苦痛と波乱万丈の人生から解放されました。
故国スコットランドでは、すでに我が子ジェームズ六世が即位しています。冒頭の言葉、エリザベス一世がもはや子供を生すことは難しいであろうことを見越して、その時はわが子ジェームズが…、という希望を託した言葉ともされますが、果たしてその真意はいかに?しかしその後の歴史は、メアリの真意はいざ知らず、この言葉の示すような…。
それはもう少しだけ先のお話です。今は前スコットランド女王メアリ・ステュアート、イングランドの地に死す。これでとどめておきましょう。
本編大河ドラマの主人公・徳川家康はこの時(1587年)、豊臣秀吉に(一時的に)臣従。従二位権大納言となります。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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