「私は艦隊を人間に対して送ったのであり、神の風や波浪に対してではない」
(スペイン王フェリペ二世 アルマダの敗戦を受けて)
「私は王の言葉において約束します、貴方たちは正しく報われます」
(イングランド女王エリザベス一世は ティルベリー演説の最後)
画像 グラヴリンヌ沖海戦(ニコラス・ヒリアード画)
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
スペイン王フェリペ二世が送り込んだアルマダ(無敵艦隊)は、ダンケルクでパルマ公の軍勢を乗せてブリテン島に上陸…、するはずでした。しかし連絡不行き届きで、いるはずのパルマ公の陸軍はいない。仕方なしにアルマダは、ダンケルク沖で待機。しかもダンケルク沖は浅瀬が多く、加えてそこはネーデルラントの反乱軍によって海上封鎖されていたため、港に近づけずに海上での待機。食糧や物資の補給もままならず、この状態が続くようなら船員たちの士気も低下してきます。
1588年8月7日、アルマダは艦同士が離れないように、密接して待機しています。そこに風向きが変わってアルマダが風下の位置となりました。イングランド艦隊は、硫黄や樹脂などを積載した火薬船をアルマダに向けて突っ込ませてきます。計8隻の火薬船のうち、6隻がアルマダに突入。指揮官のメディナ・シドニア公は、全船に錨を切って分散することを命令。敵の奇襲攻撃を受けて、慌てふためきながら分散を開始した艦船の大半は座礁したり、衝突したりなどで行動不能に陥ります。これがカレー沖海戦の顛末です。
メディナ・シドニア公は、辛うじてフランドル沖に避難することに成功した残りの艦船をもって、艦隊の再編成を図ります。しかしイングランド艦隊を率いるフランシス・ドレイクは、カレー沖で接収したスペイン船を見て、「接近戦では白兵戦で負ける。距離を置いて戦うべき」ことを見抜いて、自軍の機動性を有効活用しながら、アルマダの砲撃の射程距離外に位置します。こうしてアルマダに無益な砲撃をさせて砲弾を浪費させて、その砲弾が尽きた頃合いを見計らって接近攻撃。これにまたも打撃を受けたアルマダは、またもやフランドルに撤退。これがグラヴリンヌ沖海戦で、この勝利によってイングランドは一息入れることが可能となります。それでもまだアルマダを完全に敗走させるには至らず、依然としてアルマダの脅威は残ります。
その後もイングランド海軍は、弾薬がほぼ底を尽きかけていたにもかかわらず、必死の思いでアルマダを追撃。一方のアルマダの方は、兵士が度重なる奇襲を受けて疲労困憊の極み。もはや戦う集団の態を為していませんでした。追うイングランドに逃げるスペイン。アルマダはいつしか、上陸を目論んでいたブリテン島を横目に見ながら、北海をスコットランド沖まで北上。そこからぐるっと旋回して大西洋を南下。アイルランド島を横目に見ながら、一路スペインの港を目指しますが、その母国の港を目の前にしたアイルランド沖の海上で、多くが難破・沈没。最終的にサンタンデールの港に帰り着くことができたのは、当初の130隻のうちの約半分、67隻のみ。生き残った兵士はわずか一万。無敵艦隊はブリテン島上陸どころか、ブリテン島を周遊しただけで命からがら帰国。スペインにとっては、散々な海戦となりました。
8月18日、まだアルマダの上陸危機が完全には消えていない時。エリザベス一世は、南東部エセックス州ティルベリーで敵の上陸に備える兵士たちを訪問し、そこで演説を行っています。
「パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。不名誉を蒙るよりも私は自ら剣を持って立ち上がります」
この演説は「ティルベリー演説」として、女王エリザベス一世の演説の中でも、とくに有名なものとなりました。この演説の通り、結果としてアルマダの海戦はイングランドの勝利。スペインのブリテン島上陸の目論見を打ち破ることに成功しました。
この海戦が、その後のイングランドそしてイギリスの宣伝の上手さもあって、「スペイン帝国の没落、そして大英帝国の興隆の始まり」というようなイメージを持たれていますが、その後もしばらく、スペインはヨーロッパの覇権国であり続け、イングランドはやっと「中の上」ぐらいの国にはなったかな?という情勢です。確かにスペインにとって痛い敗戦であったことに違いはありませんが、まだ覇権国としての屋台骨は揺らいでいません。一方のイングランドも、まだまだ「大英帝国」を名乗るほどの大国ではありません。
それでもこのアルマダ、スペイン無敵艦隊の敗北が当時のヨーロッパ諸国に、少なからずの驚きと衝撃を与えたことは事実です。そしてそれは「西・仏・英三国志」の一角を占めるフランスの王位争いの行方を左右するに十分でした。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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