When I am dead and cut open, they will find Philip and Calais inscribed on my heart
「私が死んで(その体が)切り開かれたとき、人々は我が心臓にフィリップとカレーの名が刻まれているのを見つけるだろう。」
イングランド女王メアリ一世、死に際しての言葉
画像 (左)スペイン王フェリペ二世 (右)イングランド女王メアリ一世
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます
【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
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今週からは再び、ヨーロッパ史のメインストリームに戻ります。
神聖ローマ皇帝カール五世にしてスペイン王カルロス一世は、1556年の退位後、皇帝位は弟のフェルディナンド一世へ、スペイン王位は長男のフェリペ二世に譲ります。ハプスブルク家はこの時から、オーストリア系とスペイン系に枝分かれします。
皇帝位を継いだフェルディナンド一世は、そのまま帝国内の宗教混乱も引き継ぎます。それだけではなく、もとからの自分の所領であったハンガリーには、相変わらずオスマン・トルコ帝国の脅威。はっきり言って「皇帝」という名前の響きとは裏腹に、貧乏くじを引かされた感は否めません。
これに対してスペイン王位を継いだフェリペ二世にはスペイン本国だけではなく、イタリア半島の大半、当時のヨーロッパの経済最先進地帯であるネーデルラント、さらには前世紀より所領した新大陸の大半が引き継がれました。新大陸でスペインが所領するのは、メキシコから南米大陸(ブラジルを除く)まで。いわゆる現在のラテンアメリカ地域。今でもスペイン語が公用語となっている地域です。その所領は、とんでもなく広大なものでした。加えて1545年に、ポトシ銀山(現ボリビア領)が発見されて、そこで採掘された銀が大量にヨーロッパに流入します。スペインはこの大量流入の銀を戦費に充てるなどすることができました。またヨーロッパではこの銀の大量流入と、その他に人口の増加などがあいまって銀貨価値の急落と、急激な物価上昇という「価格革命」をもたらすことになりました。特にこの時の銀貨価値の急落は、皮肉にも南ドイツの銀山経営で富を築き、フェリペ二世の父カール五世の皇帝選挙に当たって(1519年)、資金面で協力した南ドイツの富豪・フッガー家の没落をもたらすことになりました。
その一方で、叔父のフェルディナンド一世にドイツ・神聖ローマ帝国が引き継がれたことで、フェリペ二世は期せずしてドイツの複雑な宗教混乱から解放されて、この問題に手を煩わされずに済むようになります。全体して、相続に関してはフェリペ二世の方が「おいしい」汁を吸うことになりました。
ところで、カール五世は退位し(1556年)、フランス王フランソワ一世は死去(1547年)しましたが、ハプスブルク家とフランス王家の宿命の対決、イタリア戦争はまだ終わっていません。フランソワ一世の死後、フランス王は次男であったアンリ二世が継いでいます。フェリペ二世とアンリ二世、息子たちの代になっても、ハプスブルク家とフランス王家の対決の構図は変わりません。これはカール五世とフランソワ一世が仲が悪かったなどという、君主個人の個性・能力・思考で片付けられる問題ではなく、フランスがスペイン(西)とドイツ(東)から、ハプスブルク家によって挟み撃ちされているという地政学的要因です。
その祝名の対決をも相続したフェリペ二世とアンリ二世は1557年、フランス北東部のサンカンタンという場所で、一大決戦を行います。「サンカンタンの戦い」です。フェリペ二世はこの時、イングランドの女王メアリ一世と結婚しており(1554年)、フランスは事実上スペイン・イングランドの二国を相手に戦うことになります。
メアリ一世は熱狂的なカトリック信者で、即位後から徹底的にプロテスタントを弾圧し、そのあまりの激しさから「ブラッディ・マリー」と呼ばれて、今でもカクテルの名前に残っている女王です。同じカトリックということでフェリペ二世との結婚。幼少期から厳格なカトリックとして育てられたメアリ一世にとっては、フェリペ二世が(おそらく)初めての男性。しかもまあまあイケメンのフェリペ二世にのぼせ上って、とにかく夫にぞっこん。対してフェリペ二世の方は、はっきり言うと「イングランド王位」目当ての結婚だったのですが、その芽がないとなると途端に冷淡になり、仕事を理由にほとんどイングランドに来なくなります。来るのは戦争が始まるという時に、妻メアリ一世に「戦費を協力してほしい」という、金を借りる時だけ。そんな夫にもメアリ一世はとことん尽くして、戦費の強力。当然、側近や議会はフェリペ二世に貢ぎまくるメアリ一世に不満です。そんな不満を抑えるためにも、この夫フェリペ二世の大一番・サンカンタンの戦いで、何らかの利益を得たいところ、ですが…。
「サンカンタンの戦い」(1557年)、結果から言いますとスペインの圧勝です。2年後のカトー・カンブレシ条約で、フランスはイタリアにおける権利を全て放棄することになりました。つまり、シャルル八世のイタリア進攻(1494年)に始まって、歴代の王たちが繰り返してきた、ナポリやミラノでの陣取り合戦が全て水泡に帰した…、といいうことです。このカトー・カンブレシ条約(1559年)をもって、約60年にわたって繰り広げられた「イタリア戦争」は終結。イタリア半島の覇権は、スペインの手に渡りました。そしてこの条約ではもう一つ、西仏両国間の和平をより強固にするために、アンリ二世の娘エリザベートがフェリペ二世に嫁ぐことも決まりました。
いや、フェリペ二世は英女王メアリ一世と結婚していたのでは?フェリペ二世、生涯に四度結婚しており、メアリ一世は二度目、今度の仏王女エリザベートは三度目の、結婚相手ととなります。ということは、メアリ一世は…?
追って説明していきます。この戦争、フランスにとって何も得るものがなかった、というわけでもありません。確かにスペインには負けましたが、その同盟相手イングランドには勝っています。中でも大きかったのが、カレー奪還。カレーは百年戦争が終結して以後も、大陸に残された唯一のイングランド領。逆にフランスにとっては「目の上のたん瘤、のど元に刺さった棘」ともいえる状態でしたが、この戦争中、ギーズ公フランソワという貴族が奮戦して、念願のカレー奪還に成功(1558年1月7日)。
逆にこの虎の子の領地・カレーを奪われたイングランド、メアリ一世は?失意のどん底に突き落とされました。もともとがあまり健康ではなかったメアリ一世は、これを機にますます衰えます。そんな時でも夫フェリペ二世は、妻の下に帰ってきません。メアリ一世の方は、夫恋しさに想像妊娠するほどであったというのに…。
メアリ一世は1558年11月17日、冒頭の言葉を遺して死去します。死の床で言うぐらいですから、よほどカレーを奪還されたのは悔しかったのでしょう。そして散々振り回されるだけ振り回され、せびられるだけせびって結局一銭も返してこない、非常な夫フェリペ二世への愛情も。
もっともイングランドにとっても、こうして大陸に領地がなくなったおかげで、以後は「島国」として生きていく覚悟ができて、それが後の「七つの海を支配する大英帝国」につながっていくので、まさに「禍福は糾える縄の如し」「人間万事塞翁が馬」。今は不幸に思われることでも、後になってどう幸いするか分からないものです。そしてフェリペ二世へイングランドの富を貢ぎまくっていたメアリ一世の死を、議会も市民も「圧政から解放された日」として、その時だけではなく、この後200年にわたって祝ったといいますから、どれだけひどかったのか?そしてイギリス人の執念深さとえげつなさ、恐ろしや恐ろしやです。メアリ一世の死後は、義理の妹に当たるエリザベス一世が女王として即位します。
今回はここまでで。
歴史を動かす役者たちも代替わりして、その興亡と攻防がますます
面白さを増してゆきます。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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