「時こそが私をここ(王位)に導いたのです」
イングランド女王エリザベス一世
(左)スペイン王フェリペ二世 (右上)フランス摂政カトリーヌ・ド・メディシス
(右下)イングランド女王エリザベス一世
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
カトー・カンブレシ条約(1559年)により、イタリア戦争が終結。イタリア半島そしてヨーロッパ大陸では、スペインの覇権が確立されました。これからヨーロッパ史は、新しい展開を見せていきます。今週は主要大国の概況を見ていきます。
本編大河ドラマの主人公、徳川家康は駿河の今川義元の下での人質生活。やがて、桶狭間の戦い(1560年)の先陣を押し付けられて出陣する頃です。
まずはスペインから。国王は父カルロス一世を受け継いだフェリペ二世。最大の強敵フランスをサンカンタンの戦い(1557年)で撃破。カトー・カンブレシ条約で覇権を確実なものに。そのフランスから、三度目の結婚相手となるエリザベートを妃に迎え、最大の敵との和平も確立。このエリザベート妃、最初は息子のドン・カルロスの結婚相手でしたが、自身の(二度目の)妃である英女王メアリ一世が死去したため、急きょ息子から強奪しての結婚です。治める領土はスペイン本国に加えて、ヨーロッパではネーデルラント・ミラノ・シチリア島・サルデーニャ島。太平洋を越えてはメキシコ以南の中南米大陸。アジアではフィリピン(「フェリペの島々」という意味)。これに後年ポルトガル王国を領土に加えることで(1580年)、南米大陸のブラジル、アフリカ大陸の一部、インド半島の西海岸、マラッカ・ボルネオまでが加わり、「日の沈まない国」と呼ばれるようになります。
このフェリペ二世時代に、首都がマドリードに固定され、現在に至ります。それまでは決まった首都というものがなく、国王が巡回する先々が事実上の首都でしたが、フェリペ二世が「国土の真ん中にある」と理由で、マドリードに固定します。
このフェリペ二世、性格は「超」が付くほどの生真面目で、仕事の鬼です。これだけの広大な国土ですから、当然ながら国王一人で全部見るのは不可能で、細かい部分は側近に任せて、自分は大所高所に立って、国全体の進む方向を支持すべきなので数が、その生真面目な性格ゆえに全てを自分で観なければ気が済まず、仕事の大半を宮殿の執務室に籠って、各地の領土から上がってくる報告書に全部自分で目を通して決裁する、というのが日課でした。その執務への態度から、「書類王」という異名を与えられています。熱心なカトリック信者としてローマ教皇の覚えもめでたく、自他ともに認める「カトリックの盟主」です。ヨーロッパ情勢はこの人の胸先三寸で動く、重要人物の一人です。
対するは、スペインに敗れたりとはいえ、なお国力は侮りがたいフランス。ですがこちらは、スペインとは違って大混乱が始まろうとしています。カトー・カンブレシ条約によるスペインとの和平、そしてフェリペ二世とエリザベート妃、国王アンリ二世の妹マルグリットとサヴォワ公の結婚を祝した祝宴の席。アンリ二世は沖積の騎士さながらに、馬上槍試合に出場して、祝宴に華を添えます。しかしその馬上槍試合で、スコットランドのモンゴメリー伯と対戦した際に、相手の突きを避け損ねて、右目を貫かれるという大惨事が発生!侍医たちによる懸命の治療も空しく、槍の木片の一部が脳髄に達していたことが致命傷となって、アンリ二世が不慮の事故死。国王は長男のフランソワ二世が継ぎます(1559年)。
しかし即位時に15歳のフランソワ二世には、耳鼻咽喉系の持病もあって病弱。即位して一年と少しで死去(1560年)。跡継ぎもいなかったため、国王位は弟のシャルル九世が継承。ちなみにフランソワ二世の妃は、スコットランドから来た有名なメアリ・ステュアートです。このメアリー妃、姑との関係で墓穴を掘ったため、フランソワ二世が死去すると体よくスコットランドに追い返されます。その姑とは、カトリーヌ・ド・メディシス。イタリア・フィレンツェの富豪メディチ家からアンリ二世に嫁いできました。結婚当初は夫アンリ二世が愛人ディアーヌにばかり入れ込んだため、悔しい思いをさせられましたがそこをじっと耐え、やがて結婚10年目からは夫アンリ二世との間に、それまでのうっ憤を晴らすかのように十人の子宝に恵まれます。シャルル九世が王位に就いた時、10歳で未成人のため、摂政に就任。以後、「事実上のフランス女王」として国政を切り盛りしていくことになります。
メアリ・ステュアートは、このカトリーヌのことを「商人さん」と小ばかにしたりと邪険に扱っていましたので、夫が死んだ途端にそのしっぺ返しを食らう羽目になりました。加えてメアリの母はギーズ家という、王家ヴァロワ家にとっての政敵であったため、その政敵の力を宮廷から一掃する目的もありました。普通、前王妃ともなれば、宮廷からは出ても国内のどこかに領地と城ぐらいは与えられるものですが、メアリ・ステュアートにはそれもなし。こういった政治感覚のなさ、自由奔放過ぎる振る舞いが、メアリ・ステュアートのその後の人生を波乱万丈のものにしていきます。能力はすごく高いのに、感情を上手く制御できずに本能の赴くままに突っ走てしまう。メアリ・ステュアートの人生に触れる度に、どこか哀れみを感じてしまいます。
そのフランスでは、幼少の王が続いたことで、国内が浮足立ちます。特にお隣ドイツの宗教改革の影響を受けて、フランスでもユグノーと呼ばれるプロテスタントが勢力を伸ばしきています。そして1562年、ヴァシーという町で開かれていたユグノーの集会を、カトリック強硬派のギーズ公フランソワが急襲。この「ヴァシーの虐殺」と呼ばれる事件を発端として、約40年続く「ユグノー戦争」と呼ばれる宗教内乱に、フランスは突入することになります。
そのフランスにあった領地カレーを失って、正真正銘の「島国」となったイングランドでは、死去したメアリ一世の後を継いで、義妹のエリザベス一世が即位しています。この女王の即位までの経緯はというと、これが薄氷を踏む思いでした。まずはエリザベス一世の父は、1547年に死去したヘンリ八世。この国王は、生涯に六度結婚しました。その一番最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれたのが、亡きメアリ一世。しかしヘンリ八世、「男子を生まないから」という横暴な理由でキャサリン妃と無理矢理に離婚して、その侍女だったアン・ブーリンと二度目の結婚。このアン・ブーリン妃との間に生まれたのがエリザベス一世。しかしこのアン・ブーリン妃も「男子を生まない+浮気」を糾弾されて離婚、のみならず斬首。三度目の結婚はそのアン・ブーリン妃の侍女だったジェーン・シーモア。この人がやっとこさ、待望の男子エドワードを生みますが、出産とほぼ同時に産褥死。この後も三度、合計の結婚をしますが、この後の王妃たちとの間には子供が生まれなかったのっで、ここでは割愛します。
1547年、ヘンリ八世が死去すると、エドワードがエドワード六世として即位。しかし生来病弱だったため(父の梅毒が遺伝したという説もあり)、即位六年で死去(1553年)。その後を継いだのが、長女に当たるメアリ一世。このメアリ一世、狂信的ともいえるカトリックであることに加え、「侍女アン・ブーリンが亡き父を母キャサリン后から寝取った恨み」と言わんばかりに、義妹エリザベスに散々のパワハラを仕掛けます。エリザベスは一時期、死をも覚悟したようですが、メアリ一世は在位わずか五年で死去。アン・ブーリン妃の斬首の直後は、「愛人の娘」扱いにされて王位継承権も剥奪されましたが、ヘンリ八世の最後の妃キャサリン・パーの尽力もあって復活。そして義姉の死去により、国王即位となりました(1558年)。
私、自分の著書ではこのエリザベス一世のことを「女・家康」と称しています。性別の違いはあれど、辿った苦難の道は家康のそれを彷彿とさせるものがあります。そのエリザベス一世が即位に当たって発したのが、冒頭の言葉。まさに家康の言葉ではありませんが、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう時鳥」に共通すものがあります。数々の苦難、姉のパワハラをその忍耐力でしのぎ切って、国王位にたどり着いたエリザベス一世の人生には、性別を超えて「人としての凄味」を感じさせます。この即位までの苦難で培われた忍耐力と「人としての凄味」が、この後の国王としての治世で存分に発揮され、それはスペイン王フェリペ二世をもきりきり舞いさせるほどでした。
今回はここまでで。
さあ、いよいよ役者が揃ってきました。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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