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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ㉓西欧三国志、スペインとイングランドに曳かれるフランス

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

「不運を打開するには、行動あるのみ」

(ナヴァール王アンリ、後のフランス国王アンリ四世)


画像 トロワ(三人の)アンリの戦い

(上から時計回りに)ナヴァール王アンリ、ギーズ公アンリ、フランス国王アンリ三世


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


今週は再び、メインストリームである西・仏・英三国志へ。状況をおさらいしておくと、


◎ネーデルラントの反乱に手を焼くスペイン

◎相変わらず宗教内乱が続くフランス

◎メアリ・ステュアートという爆弾を抱えるイングランド


です。これら各国の内政が外交関係に複雑に絡み合いながら、国際情勢が動いていきます。海を隔てているイングランド以外は地続きのヨーロッパ。その海を隔てているイングランドですらも、ドーバー海峡は人が泳いで渡れるほど。このようなヨーロッパでは、国内問題が同時に外交問題にもなります。


まずはスペイン。1581年、北部ネーデルラントがスペイン王フェリペ二世を「廃位」して独立を宣言。ここにいう北部ネーデルラントとは、いわゆる現在のオランダ王国にほぼ該当する地域。対して現ベルギーとルクセンブルクに該当する地域は、その後も「スペイン領ネーデルラント」として、もうしばらくスペイン領であり続けます。


北部ネーデルラントは独立を宣言しましたが、当然ながら宣言してすぐに独立が認められるわけではありません。後にアメリカ植民地13州が1776年7月4日に独立を宣言しても、実際に独立が認められたのが、本国イギリス相手に独立戦争を戦い抜いて勝利し、パリ条約でその独立を認められたのが1783年。その間、約七年もの月日を要しています。1581年の北部ネーデルラントも独立宣言したものの、当然ながらスペインがそう簡単に認めるはずがありません。この後、後年のアメリカよりももっと長い月日をかけてスペインと戦っていくことになります。独立宣言というのは、いわば象徴的な意味合いに過ぎません。もっとも宣言をしなければ、物事も歴史も動いていかないのですが。


この北部ネーデルラント独立宣言を、イングランドのエリザベス一世は表向き静観します。あまり表立って支持すると、スペインとの本格的な戦争になりかねません。当時のイングランドには、まだスペインに太刀打ちするだけの実力はありません。しかし裏では、密かにネーデルラントのプロテスタント勢力に支援を与えています。


それだけではなく、エリザベス一世は1580年に世界一周から帰国したフランシス・ドレイクという船乗りに、ナイトの爵位を与えています。もちろん偉業ではありますが、その途中で何をやって来たか?というと…。周航の途中で立ち寄ったチリやペルー(スペインの植民地)沿岸で、スペイン船を襲撃。フェリペ二世に献上されるはずであった財宝や、その他の金銀・貨幣・装飾品などを掠奪。早い話が海賊行為です。こうして約三年の世界周航を終えて帰国した後、これらの財宝をエリザベス一世と彼の出資者たちに献上。女王には王宮の歳入(約20万ポンド)を上回る30万ポンドを献上したとされ、これによってイングランド王室は債務の返済を終わらせ、さらには後の東インド会社設立の基礎も、このドレイクの献上品、いや略奪品によって築くことになります。裏を返すなら、スペインの植民地にはどれだけの富が埋蔵されていたのか?ということです。


この半ば海賊のドレイクにナイトの称号を与え、さらには海軍中将にまで任命してしまう所が、エリザベス一世の図太いところです。しかし当然ながら、ここまで公然たる海賊行為。スペインが黙っているわけがありません。メアリ・ステュアートという火種を抱えていることもあって、必然的にスペインとの関係は悪化。帰国後、一時はプリマス市長をしていたドレイクも、再び海軍に戻って、対スペインの臨戦態勢に入ります。


その頃、フランスは相変わらずユグノー戦争が続いています。エリザベスに求婚するも、もてあそばれて終わった王弟フランソワは、1584年に無念の死去。これによりあれだけたくさんいたカトリーヌ・ド・メディシスの子供たちも、もはや現国王アンリ三世のみに。しかもアンリ三世は男色?の傾向もあって、妃も一度流産した後は体がめっきり弱くなり、跡継ぎを生すことが期待できない状況に。これによって王位継承の第一位はブルボン家のナヴァール王アンリとなり、このままいくとヴァロワ朝は断絶となる公算が高くなりました。


この頃から、フランス国内の政治情勢もまた三国志の様相を呈します。三国志の様相という以上、三人の主要人物がクローズアップされてきます。一人目は国王アンリ三世。二人目は王位継承第一位となったナヴァール王アンリ、ユグノーの雄。そして三人目はギーズ公アンリ、ロレーヌ公にして強硬派カトリック。偶然にも皆アンリで、しかもこの三人、幼少時には王宮で学び舎を共にしたこともある機縁。ここからフランスは、「トロワ(三人の)アンリの戦い」と呼ばれる段階に入ります。


1576年にフランスでは「カトリック同盟」が組織され、1584年にはギーズ公アンリが事実上の盟主となります。1582年頃からは、スペイン王フェリペ二世からこのカトリック同盟に資金援助が与えられるようになります。ギーズ公アンリとカトリック同盟の背後には、スペインの影響力が。対してナヴァール王アンリのユグノー勢力には、イングランド王エリザベス一世からの援助。ユグノー戦争は、もはやフランス一国内にとどまらず、本当に西・仏・英三国志と呼べる国際戦争へと発展した感があります。ギーズ公アンリはユグノーのナヴァール王アンリはもちろん、ユグノーに対して弱腰な国王アンリ三世をも廃して、自らが王位に就く野心を隠しません。しかしもしギーズ公アンリが王位に就くようなことがあれば、その背後には当然ながらフェリペ二世が黒幕として、強大な影響力を発揮することになります。そうなったらもはや、フランスはスペインの属国になることが火を見るよりも明らかに。それがゆえに、アンリ三世は同じカトリックでありながらも、ギーズ公アンリと対立します。


いずれ王位を譲るならナヴァール王アンリへ。それはアンリ三世としてもやぶさかではないのですが、唯一にして最大のネックが、ナヴァール王アンリがユグノーであること。「いとも敬虔なるキリスト教徒の王」たるフランス王は、ランスで塗油の儀式を経ることによってフランス王として認められます。つまりはカトリックでなければなりません。アンリ三世は密かにナヴァール王アンリのもとへ使者を送り、「カトリックに改宗しないか?」と説得を試みますが、ここまで何度も改宗を重ねてきたナヴァール王アンリも、今度ばかりは簡単に首を縦に振りません。


またこの頃のフランスでは、もうかれこれ二十年以上も続くユグノー戦争に対して、「信仰の違いで対立を繰り返していると、いつまで経っても収拾がつかずに、フランスが外国に乗っ取られてしまう。それよりも違いは違いとして認めて、もっと現実的に政治をしていくべし」という、ポリティーク派と呼ばれる人たちも出てきます。こうした人たちは特に国王アンリ三世、そしてナヴァール王アンリの周囲にも増え始め、「トロワ(三人の)アンリの戦い」とは言いながらも、「アンリ三世&ナヴァール王アンリ対ギーズ公アンリ」という対立図式に移行していきます。


ちょうどこのころ、本編大河ドラマの主人公・徳川家康は本能寺の変での盟友・信長の死、明智光秀の追っ手を伊賀越えで何とか振り切って、無事三河へ帰国。明智光秀を破って主君の敵討ちと天下取りを固めつつある羽柴秀吉に対して、小牧・長久手の戦い(天正十二・1584)を戦うところです。



今回はここまでで。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。



繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文



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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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