こんにちは。「日本人のための世界史作家」小園隆文です。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
さて、名古屋市長による金メダルかじり、その後謝罪のために金メダリストの所属企業を訪れるも、あえなく門前払い…。というニュースから、1077年に起こった「カノッサの屈辱」というヨーロッパ史の事件が、一時期トレンドになったとのことで、今日はこの「カノッサの屈辱」をご説明いたします。
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事件の当事者は、ローマ教皇グレゴリウス七世と、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世。この二人に限らず、教皇と皇帝はこの前も後も、ヨーロッパ史のほぼ全時代を通じて争っていますが、この時は特に「叙任権闘争」と呼ばれる、各地の教会の司教をどちらが任命するか、という件で争っていました。
皇帝は特に北イタリアに勢力を伸ばすことを狙っており、ミラノやその他の都市に自分の息のかかった司教を、次々と任命します。
それに対して、自分のおひざ元のイタリアで勝手なことをやられた教皇は怒り心頭に達し、「お前は破門だ!」と伝家の宝刀を抜きます。キリスト教信仰が生活の全てに優先するこの時代において、「破門=キリスト教徒ではない=人間ではない」というぐらいの、とても重い出来事です。
それでも強気の皇帝は、「そんなこと、知ったことか!」と強硬姿勢を崩しませんが、皇帝のおひざ元・ドイツ地方の諸侯たちが、これ幸いとばかりに、これまでの不満から教皇支持に乗り換え、皇帝の言うことを聞かなくなり、自身の権力基盤が危うくなります。
さすがに窮地に陥り、「教皇に謝罪し、破門を解いてもらおう」と、皇帝はイタリアに向かいます。途中、教皇が巡幸の途中で、北イタリアのカノッサ城に滞在していることを知り、そこに向かいます。
このカノッサ城の城主は、マティルデ伯という女性で、過去に皇帝の父ハインリヒ三世に一族ともども人質に取られたり、兄を殺されたりと、恨みを抱えており、一貫して教皇を支持。
そして1077年1月25日から三日間。何の前触れもなく突然現れた皇帝は、雪の降りしきるカノッサ城の入り口で、素足で断食をしながら、皇帝は教皇に許しを請います。教皇は最初は戸惑いながらも、結局は破門を解くことを伝えます。一方、一族の仇の息子である皇帝が、みすぼらしい姿で許しを請う姿を、マティルデ伯は何を思ったか?
そんなこんなで破門は解かれますが、その途端、皇帝は再び教皇と対立しま。そしてこれ以後も、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立は、ヨーロッパ史の軸の一つとして展開していきます。
以上が、「カノッサの屈辱」事件の大まかなあらましです。少なくとも名古屋市長のやったことよりかは、幾分は高尚な次元です。しかし、こういう流れで「カノッサの屈辱」がトレンドになるとは、世の中分からないものです。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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