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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ⑪「銭が賽銭箱の中でチャリンとなると…」

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

「霊魂が天国へポンと飛び上がる?って言われても…。これ、本当に効くんですか?」

そんな素朴な疑問が、歴史を突き動かす大事件につながった…。


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。


【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。


今回は「宗教改革」を取り上げます。


カール五世が神聖ローマ皇帝に即位する二年前の1517年、その事件は起こりました。


イタリア戦争の開戦(1494年)から約四半世紀。ヨーロッパの各国は長引く戦火によって、どの国もみな財政は火の車でした。そしてローマ教皇庁もまた例外ではなく、財政難に喘いでいました。もっとも教皇庁の財政難は、ルネサンス華やかなりし時のイタリアにて、芸術家たちを保護したり、その芸術家たちに教会を派手に彩るための作品を作らせたりというのが主な原因で、身から出た錆、自業自得なのですが。


そんな財政難にもかかわらず、ローマ教皇庁はサンピエトロ大聖堂の改修工事を企てます。当然ながら先立つもの、資金が必要です。しかし教皇庁にはすでに書いた通り、金がありません。こういう場合、各国の君主たちに寄付させることもできるのですが、やはり既述したような理由で、各国の王たちにも金がありません。


しかしそこは、当時のヨーロッパからえり抜きの秀才たちが集まるローマ教皇庁。その彼らが知恵を絞って、改修資金の錬金術を考え出します。そして思いついたのが、ローマ教皇庁の十八番ともいえる「贖宥状」の販売です。「贖宥状」とは、ローマ教皇庁いわく「持つことで魂は天国に行くことができて救われる」という、摩訶不思議?なお札です。


ローマ教皇庁はこの贖宥状を、ヨーロッパ全土で販売しようと、各国の王たちに働きかけます。各国の王たちは最初は、あまり乗り気ではありませんでした。なぜなら、自分の王国の臣民たちがこの贖宥状を買うと、それだけ自国の富がローマに吸い取られてしまうからです。そこでローマ教皇庁は「委託販売制にして、売上金額の四分の一をあげましょう」という、商人顔負けの案を出して、各国の王たちも「そんなに取り分をもらえるなら」と、贖宥状販売に協力します。ローマ教皇庁と各国の王たち、時には争うこともありますが、この時は利権を同じくした、ずぶずぶのでした。


この贖宥状販売に、とくに目を付けられたのが神聖ローマ帝国、今のドイツの地です。皇帝がいるとはいえども、実態は三百以上に分裂した諸侯の連合体。帝国全体を強力に取りまとめる中央政府は無きに等しく、したがって商売はやりたい放題。しかもそこに住む大多数のドイツ人は、この当時のヨーロッパではまだまだ田舎者。良くも悪くもこすれた、教皇庁おひざ元のイタリア人たちが、「贖宥状?そんなもの効くわけないだろ」と鼻でバカにしていても、純朴な田舎者のドイツ人たちはありがたがって買う人が多く、そんなドイツ人たちをイタリア人は陰で「ローマの雌牛」と、小ばかにしていました。


そのドイツで特に贖宥状販売を頑張っていたのが、マグデブルグ大司教のアルブレヒトです。彼は選帝侯という特権も付くマインツ大司教の地位に就くために、ローマ教皇庁に多額の上納金を納める必要がありました。しかし自己資金で賄えないアルブレヒトは、南ドイツの大富豪フッガー家から、選帝侯になった後の便宜を図ることを条件にお金を融通してもらって、それでローマ教皇庁に上納金を納めます。しかし今度は、フッガー家にお金を返済していかねばなりません。「さあて、どうしたものか?」と資金繰りに頭を悩ますアルブレヒトにローマ教皇庁から、「贖宥状を売りまくって、それで借金を返済しなさい」と妙案が入り、さっそく力を入れて売り始めます。もっとも大司教たる者が直接、手を汚す?わけにもいかないので、テッツェルという修道士に実務業務を委託します。その修道士テッツェルは、香具師としての才能もあったのかもしれません。


銭が賽銭箱の中でチャリンとなると、煉獄にいる霊魂が天国へポンと飛び上がる


結構露骨なセールストークで、贖宥状を売りまくります。おそらくはマグデブルグを中心に販売していたのでしょうが、噂を聞きつけて他の町や村からも買いに来た人がいたことでしょう。その他所から来た人たちの中には、ヴィッテンベルクという町から来た人もいました。その人は勢い勇んで贖宥状を買って、「さあ、これで一安心」とヴィッテンベルクに帰ります。しかし少し時間が経つと、買った時の熱気は薄れ、次第に疑念が頭にもたげてくる人も、中にはいたでしょう。「これは本当に効くのか…?」。そこでヴィッテンベルクからわざわざ買いに行った人は、その疑問を地元ヴィッテンベルク大学の神学教授にぶつけてみました。「本当に効くんでしょうか?」。その神学教授は、回答を保留したそうです。その教授の名は、マルティン・ルターといいました。


このルター教授の態度が、巡り巡って修道士テッツェルに伝わります。テッツェルはこれを委託元であるアルブレヒト大司教に、規律違反であるとして告発します。いやしくも神学教授であるなら、こうした疑問を聞いたら、「効くよ、もっともっと買いなさい」と奨励するぐらいのことを言わずにどうする?ということなのでしょう。


しかしルター教授は、かねてから贖宥状に批判的であることで、地元ではそれなりに通っていました。ただ田舎町のことなので、あまり大々的にならなかっただけだったのでしょう。しかしこのテッツェル修道士の告発に対して、ついにルター教授は意を決して、ある大胆な行動に出ます。1517年10月31日(または11月1日とも)、地元ヴィッテンベルク教会にある文書を貼りだします。それは後に「九十五ヶ条の提題」と呼ばれるものでした。


ルター教授はこの贖宥状についてだけではなく、その他にも常日頃からローマ教皇庁と教会に対して、腹に据えかねていたことや疑問に感じていたことを、この「九十五ヶ条の提題」にぶつけてみました。現代であれば、それは「表現の自由」として認められるのでしょうが、教会や信仰が生活や人生の中で、今よりもはるかに大きな比重を占めるこの当時にあっては、かなり大胆な行動といえます。このルター教授の態度を受けた教会側も、「何だ、その態度は!」と言わんばかりに反発を示します。


こうして後に「宗教改革」と呼ばれることになる歴史的事件が幕を開けました。そしてこれは単に一介の神学教授の反発にとどまらず、ローマ教皇・神聖ローマ皇帝・各国の王たちを巻き込んだ、大事件に発展していくことになるのですが…。


今回はここまでで。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

日本人のための世界史作家

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