「戦争は他家にさせておけ。汝、幸いなるオーストリアよ、婚姻せよ」
(作者不詳、ハプスブルク家の婚姻政策が、他家に比べるとアタリが多いことを揶揄したもの。実際はハズレも結構多い。アタリのインパクトが強いだけ)
画像 『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ二世』ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593)スウェーデン・スコークロステル城所蔵
こんにちは。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文 です。
今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。
今週はすっかり影が薄くなってしまっていた、ドイツ・神聖ローマ帝国とイタリア半島の情勢を見ておきましょう。
ドイツ・神聖ローマ帝国では、アウグスブルクの宗教平和令(1555年)以後、約40年続いた宗教混乱はひとまず小康状態に。しかし対立が完全に消えたわけではありません。鳴りを潜めているだけのことです。
ドイツ王そしてローマ皇帝は、故カール五世の後を継いだ弟フェルディナンド一世の死去(1564年)の後、長男のマクシミリアン二世(在位1564~76)が継ぎます。妃にはスペイン王フェリペ二世の妹マリアを迎えています。ハプスブルク家の近親婚政策、「下賤な血は入れない」というものですが、この近親婚を続けていくことで、後々大変なことになります。それはともかく、マクシミリアン二世はプロテスタント諸派にも理解が深く、本人もルター派への改宗希望でしたが、父から「それなら廃嫡だ!」と圧力をかけられ、やむなく断念。しかしこういう寛容な性格ですから、治世は平穏無事に進みます。それでもハプスブルク家宿願の、「ハンガリーからのトルコ追放」は果たせずに死去。
その後を継いだのは、マクシミリアン二世の長男ルドルフ二世(在位1576~1612)。父マクシミリアン二世がプロテスタントに寛容だったため、「これではダメだ!」とフェリペ二世の肝いりで、幼少時よりマドリードの宮廷に送られてそこで過ごしました。そのためもあって、ガチガチのカトリック信徒として育ちます。父の死によって皇帝位を継承してウィーンに戻りますが、案に相違してルドルフ二世もまた、プロテスタントに寛容な態度で臨みます。もっとも物は言いようで、寛容というよりは無策または無関心と言った方が正しいかもしれません。ルドルフ二世は政治に全く無関心で、この態度を苦々しく思った弟マティアスとの険悪な関係は、「ハプスブルクの兄弟喧嘩」として有名です。
しかしながら、ルドルフ二世の「無能の能」が功を奏してか、帝国はそれなりに治まっていましたが、やる気満々のマティアスとしてはそんな兄を見ていると歯がゆくてなりません。「自分が皇帝ならもっと徹底的にやるのに!」と歯噛みすることしきり。
そんな弟マティアスを尻目に、ルドルフ二世は帝国の首都をプラハに移します(1583年)。ルドルフ二世は政治面での評価はいまいちですが、文化面ではその功績を高く評価されています。プラハに当時の名だたる芸術家・学者・錬金術師たちを集め、プラハ一躍ヨーロッパでも有数の文化都市として発展します。特に「惑星の軌道は楕円形である」という『ケプラーの法則』を発見した天文学者のヨハネス・ケプラーは、それを『ルドルフ星表』とルドルフ二世の名前を冠して発表しました(1627年)。そのルドルフ二世は晩年になると精神を病み、国王・皇帝としての職務遂行はもちろん、日常生活でも少し変わった行動が目立ち始めます。それによって最後は弟マティアスによって帝位を簒奪されてしまうのですが、それはまだもう少しだけ後の話です。
画像の『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ二世』は、ルドルフ二世自らミラノの画家ジュゼッペ・アルチンボルドに依頼して描かせた肖像画です。自身をローマ神話に登場する豊穣の神ウェルトゥムヌス見立てて描かせたもので、ルドルフ二世の顔中至る所から50種類以上の果物・野菜・花などが生まれ出でていることを表しています。インパクトが強烈ですから、見たことがある方も多いことでしょう。
このルドルフ二世、こういう肖像画を描かせるぐらいですから、とても教養に恵まれた文化人ではありました。長男だったばかりに皇帝位を継ぐ羽目になってしまいましたが、もし次男に生まれて政治に関わらなくてもいい立場になっていれば、本人ももっと幸せな人生を送れたかもしれません。なまじ皇帝や国王に即位すれば幸福、というものでもありませんから。
さてお次はイタリアです。イタリアはカトー・カンブレシ条約(1559年)によってスペインの覇権が確立して以降、すっかりヨーロッパの国際情勢からも置いてけぼりになりました。半島の中で勢力を保っているのは五大国。ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ公国、教皇領国家、ナポリ王国です。この中でかろうじて独立を保っているのはヴェネツィア共和国とフィレンツェ公国、そして教皇領国家のみ。ミラノ公国とナポリ王国はスペイン支配下に置かれ、その他の小さな都市国家群はそれに倣うしかありません。実際の統治は、マドリードの政府機関「イタリア諮問会議」によって為されています。
ローマ教皇庁は、1563年に終了した「トレント公会議」によって打ち出された「対抗宗教改革」を、ヨーロッパの中でだけではなく、ヨーロッパ・キリスト教世界意外にも推し進めています。その切り込み隊長となっているのがイエズス会と呼ばれる修道士会で、日本にもやって来たザビエルもこのイエズス会宣教師です。ちなみに現代の私たちの生活に関係の深い事柄で言えば、教皇グレゴリウス十三世が暦法を改正して、自分の名前を冠した「グレゴリオ暦」を採用しました(1582年)。これが現在、いわゆる「西暦」として使われている暦です。もっともこのグレゴリオ暦が世界の隅々まで普及するのは、この何百年も後のことです。この時はまだヨーロッパの中だけでしか通用していない暦です。イスラム世界にはイスラム歴が、中華世界には太陰暦がという具合に、世界の名だたる文明圏には独自の暦があります。そしてこれらはそれぞれの地域で、現在も通用しています。暦=時を支配することは、そのまま人間生活の隅々まで支配することになります。ですから歴史の長い文明圏ほど、独自の暦を譲りません。日本の元号もそうです。現在でこそ、明治以降は生活の利便性に合わせて西暦に対合させていますが、この元号もまた「日本国は天皇がおわす国」であることを内外に示すものです。ですから決して途絶えさせてはいけません。
今週はメインストリームの西・仏・英三国志を離れて、ドイツとイタリアの情勢をおさらいしました。両者に共通していることは、ドイツは諸侯に、イタリアは各都市ごとに分裂していること。そのために、ある程度「国」としてまとまりつつあるスペイン・フランス・イングランドに比べると、国力も分散して、そのために政治的に大きな影響力を発揮できる状態にありません。
本編大河ドラマの主人公・徳川家康はこの頃、本能寺の変そして神君伊賀越えという人生の修羅場を経験しています(1582年)。
今回はここまでで。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
繋善言轂 よきことつなぐこしき
文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家
小園隆文
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