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【裏・大河ドラマ】家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史  ⑬ヨーロッパにもあった「本能寺の変」…未遂事件

執筆者の写真: 小園隆文小園隆文

私はドイツへ九度、スペインへ六度、フランスへ四度、アフリカとイングランドには二度ずつ赴いた」(カール五世、退位式での述懐)


こんにちは。


繋善言轂 よきことつなぐこしき 

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家


小園隆文 です。


今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。


【裏・大河ドラマ】ブログ 家康が生きた十六世紀のヨーロッパ史。



この16世紀前半のヨーロッパは、神聖ローマ皇帝・カール五世を中心に動いています。画像はカール五世の所領です。


その皇帝カール五世には、三つの主要な敵がいました。


フランス王フランソワ一世

帝国内のプロテスタント派

オスマン・トルコ帝国


オスマン・トルコ帝国は1521年にスルタンに即位した、スレイマン一世・壮麗王の時代に、ヨーロッパへの進攻を本格化し始めます。1526年のモハーチの戦いでは、ハンガリー王ラヨシュ二世を打ち破り、ハンガリー王国の一部をその領土に。ハプスブルク家の本拠・ウィーンの目と鼻の先まで迫り、その心胆を寒からしめます。


そして1529年、「第一次ウィーン包囲」を決行。しかしこの時は、あまりにも戦線が長く伸び過ぎたために補給が上手くゆかなかったことに加え、例年よりも早かった寒い冬の到来のために苦戦。そうしているうちに国内で反乱が発生したため、包囲を解いて撤退。ハプスブルク家は命拾いしました。がしかし、異教徒イスラムの大国であるオスマン・トルコ帝国が、ヨーロッパの中心部に手が届くところにまで攻め込んできたことに、ハプスブルク家のみならず、キリスト教ヨーロッパ世界全体が恐怖のどん底に突き落とされます。


しかし中には、この強大なオスマン・トルコ帝国が、皇帝カール五世とハプスブルク家に立ちはだかることを、好都合に思う人たちもいます。それは誰か?それがまさしく、カール五世の三つの主要な敵である、①フランス王フランソワ一世と②帝国内のプロテスタント派、の二つです。フランソワ一世は「いとも敬虔なるキリスト教徒の王」と呼ばれるにもかかわらず、「信仰と政治は別」とばかりに、体面など一切気にせずにスレイマン一世と同盟を結んで、カール五世に対抗します。帝国内のプロテスタント派は、カール五世や弟のオーストリア大公フェルディナンド一世に、対オスマン・トルコ帝国との戦いで兵や資金の協力を求められると、「協力の条件は、信仰を認めること」と、対オスマン・トルコ帝国戦を取引材料にします。まさしく「敵の敵は味方」。これぐらいの交渉が出来なければ、生き馬の目を抜く厳しい国際政治の世界では、生き残っていけません。皇帝カール五世は、この三つの主要な敵たちと、入れ代わり立ち代わりで、戦いと休戦を繰り返していきます。


そして1547年、大きな転換点を迎えます。この前年の1546年、「宗教改革」の発端となった男、マルティン・ルターが死去。次いでこの1547年には、ここまでカール五世を散々手こずらせてきたライバルたち、イングランド王ヘンリ八世、そしてフランス王フランソワ一世が相次いで死去。加えてもう一人のライバルである、オスマン・トルコ帝国のスレイマン一世は、サファヴィー朝ペルシャと争いを抱えており、ヨーロッパ進攻の余裕はありません。カール五世は、ついに「機は熟した!」と感じたでしょう。この内外の好機を逃さず、カール五世は行動します。何に?プロテスタント派のせん滅です。


すでに前年の1546年から、シュマルカルデン同盟との戦いは始まっていました。しかし仏と英、二人の国王の死がカール五世に一機果敢な攻撃を決意させました。この1547年4月、皇帝軍とシュマルカルデン同盟は、ドイツ東部のミュールベルクで激突。後に「ミュールベルクの戦い」と呼ばれるこの一戦で、皇帝軍はシュマルカルデン同盟に圧勝。カール五世が陣頭指揮を執る皇帝軍に対して、各諸侯の思惑が複雑に絡み合って統率の取れないシュマルカルデン同盟。その勝敗は明らかでした。


カール五世は、さらにここぞとばかりにプロテスタント派に追い打ちを掛けます。同じく1547年9月、レーゲンスブルクにて帝国議会を開催します。この帝国議会は、カール五世がスペインの大軍を動員して物々しい警備を敷いたため、「甲冑で鎧われた国会」と呼ばれます。ここでカール五世は、「仮協定(インヘルム)」をごり押しして、帝国内でのカトリック優位を強制。さらに帝国をハプスブルク家を盟主とした中央集権国家体制に近づけるたっめの、「帝国同盟案」も提出。しかしこれには、プロテスタント派のみならず、カトリック派の諸侯も反対。その反対する諸侯たちを、カール五世は問答無用に力づくで押さえつけていきますが、この皇帝の独裁化傾向に対して、分裂状態に慣れ切ったドイツ諸侯たちの間には不満がくすぶっていきます。


それでもカール五世の絶頂期は続きます。しかしその絶頂は、いとも呆気なく崩れました。きっかけはザクセン選帝侯モーリッツ。モーリッツはその信仰がプロテスタントですが、先のシュマルカルデン戦争においては、「ザクセン選帝侯にしてやる」という取引で、カール五世に協力。そのためプロテスタント派からは、「マイセンのユダ」と呼ばれて裏切り者扱いです。しかしその後のカール五世の独裁化傾向に疑問を感じ、このままでは帝国のためにならないと、密かにカール五世に一泡吹かせることを目論みます。そして手を組んだのが、フランス王アンリ二世。アンリ二世もまた、かつてカール五世に人質に取られた個人的な恩讐に加えて、国王が代わってもフランスがハプスブルク家に東西から挟み撃ちされている状況に脅威を感じています。モーリッツ公とアンリ二世、この二人が打倒カール五世で利害が一致し、1552年に皇帝に対して宣戦布告。


トゥール・ヴェルダン・メスといった、現独仏の国境付近に攻撃をかけるアンリ二世。それに対してモーリッツ公は、カール五世が静養していたインスブルックを襲撃。カール五世、このモーリッツ公の裏切りは完全に想定外でした。「ザクセン選帝侯に取り立ててやったのに…」、そんな甘い感傷が通じる相手ではありません。ほんのわずかな護衛しか連れておらず、大げさではなく本当に「着の身着のまま」の状態で、辛くもインスブルックを脱出。這う這うの体でどうにか妹マリアが待つネーデルラントに転がり込みます。この事件、ヨーロッパ史における「本能寺の変・未遂」事件です。信長と違って、命を永らえただけまだましだった、と言えます。カール五世にとっては、人生最大の不覚と言えます。


この事件を境に、カール五世の武運も気力も、坂道を転がるように落ちていきます。共に攻め込んできたアンリ二世からは結局、占領地を奪い返せず、先の三都市はそのままフランス領に。それ以上に、このモーリッツ公の裏切りが相当に堪えたのか、一気に気力が減退。モーリッツ公の裏切りの前から、息子のフェリペには「父は疲労困憊してしまった」「私は気力体力を失し、人生の危機に耐えるのは出来そうもない。死後のことを考えてお前に忠告しておく」と弱音を晒していましたが、それが現実となって襲い掛かってきて、ますます気力減退。そして1556年10月、スペイン王位を息子のフェリペへ(フェリペ二世)、皇帝位を弟のフェルディナンドへ(フェルディナンド一世)それぞれ譲り、スペインのユステ修道院で隠退生活へと入ることになりました(1558年に死去)。


約40年にわたってヨーロッパと新大陸に君臨し、スペイン王・神聖ローマ皇帝以外にも、その抱えた称号は70を超えます。文字通りに世界皇帝として君臨し、皇帝とカトリックの権威によって、古のローマのような「普遍帝国の再現」を目指したカール五世でしたが、それは既に時代遅れのものとなりつつありました。この16世紀のヨーロッパでは既にフランス、イングランド、ポルトガル、そして皮肉にもおひざ元のスペインといった、現代私たちが目にする、よりコンパクトな規模の「近代国家」が形成され始めていました。これら形成されつつある「近代国家」がヨーロッパはもとより、徐々に世界各地に勢力を広げていくことになります。それはヨーロッパから遠く隔たった日本にも影響を及ぼし始めます。


今回はここまでで。

すでに今年の大河ドラマの主人公、家康は1543年(天文十一年)に生まれています。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


繋善言轂 よきことつなぐこしき

文明史家・日本人のための世界史作家・生命力を高める文章家

小園隆文


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​小園 隆文 こぞの たかふみ

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